Ode to Bobbie title



前口上

 Add More Musicを訪れる方々のなかには、「なぜいまさらボビー・ジェントリーなのだ」などと、無意味で無粋なことをいう人はいないだろう。われわれはいまだに60年代の音楽とともに暮らしているのだから、いつだって「いまさら」のド真ん中なのだ。
 しかし、あまたある60年代の音楽のなかで、なぜとくにボビー・ジェントリーなのか、という疑問ならば、かならずしも無意味で無粋なわけではない。いや、だからといって答えが非常に有意味になるわけでもない。このサイトのオーナーである木村と、「ちいママ」を自認する鶴岡がそろってボビーのファンであり、日米を問わず、彼女の真価はいまもって発見されていないと信ずるから、といった程度のことなのだ。
 今年7月、ボビーのオリジナル・アルバムのストレート・リイシューがいっこうに進まないのに業を煮やした鶴岡が、ハリウッドのセッション・ギタリスト陣が活躍する『Local Gentry』だけでも、「Rare Inst. LP」コーナーの番外編として公開してしまったらどうか、と木村に勧めた。木村は、1枚だけなどとケチくさいことをいわず、いっそ、丸ごと全部やってしまおう、レア・インスト番外編などという継子扱いではなく、立派な独立したコーナーにしよう、といいだし、この企画が実現することになったというしだいである。
 2003年のMojo誌の記事にこんな挿話が出ていた。キャピトルの広報に、ボビー・ジェントリーについて、そちらにはどんな資料があるか、と問い合わせたところ、広報の女性は「 に関する資料は当社にはありません」とこたえた、というのだ。日本語でカタカナで書いてもそうだが、英語の場合も、発音だけでは性別がつかないのである。
 かつての所属レーベルの広報が知らないくらいだから、ボビー・ジェントリーと、キャピトルに大きな利益をもたらした 彼女 のナンバーワン・ヒット"Ode To Billie Joe"のことを記憶しているのは、当時を知るファンだけになってしまったのだろう。したがって、簡単な紹介をしておく必要があるかもしれない。そんなしち面倒なことはどうでもよいというかたは、下のリンクから、各アルバムのページに飛んでいただきたい。じつのところ、書いているわたし自身が、バイオなんてどうでもいいんだよ、音のほうがだいじだ、と思っているくらいなのだ。
 当初、Touch'Em With Loveだけは鶴岡所持のLPを使う予定だったが、この企画のために木村が新たに海外からこのアルバムを買い求めたので、音源はすべて木村が所持するものを使っている。なかには非常にいい状態の盤もあり、こうしてディジタル化されてしまうと、そもそもわれわれはなぜ、商売人たちのいいなりに、CDなどというものを買ってしまったのだろうか、と不思議に思うのではないだろうか。
 各アルバムのテキストは主として木村が担当した。鶴岡がテキストを担当した一部のアルバムは、その旨を末尾に記した。

・ Ode To Billie Joe
・ Delta Sweete
・ Local Gentry
・ Bobbie Gentry and Glen Campbell
・ Touch'Em With Love
・ Fancy
・ Patchwork




Quick Bio
 ボビー・ジェントリーは、ロバータ(ボビー)・リー・ストリーターとして、1944年7月27日(45年とする資料もある)、ミシシピー州チカソー郡の村はずれの農家に生まれた。彼女がまだ幼いうちに両親が離婚し、ボビーは祖父母とともにこの家に残った。彼女が子どものころは電気も水道もなかったほどで、非常に貧しい一家だった。ボビーは早いうちから音楽に興味を示し、祖母は乳牛一頭を代価に近所の家からピアノを手に入れてくれた。
 1957年、母と暮らすことになったボビーは、南部をあとにしてカリフォルニアに移り住み、アーケイディアで2年をすごしたのち、ロング・ビーチに引っ越した。南部で育ち、少女期をカリフォルニアですごしたということが、おそらくは彼女の音楽の重要な要素を成していると思われる。
 このころ、ボビーはキング・ヴィダー(ヴァイダー)監督の1952年の作品『Ruby Gentry』(邦題『ルビー』。主演:ジェニファー・ジョーンズ、チャールトン・ヘストン)を見て、「ボビー・ジェントリー」という名前をつくりだす。この映画は、その後、ボビーが書いた曲に通底するものがあるので、あらすじを読んでおいても、まんざらむだにはならないだろう。
 ハイスクールを卒業してからしばらくのあいだ、ボビーはラスヴェガスの「フォリー・ベルジェール」という劇団で働いた(名前から考えると、これはフランス風のレヴュー劇団で、フレンチ・カンカンなどを踊っていたのではないだろうか)。
 ふたたびカリフォルニアにもどったボビーは、秘書などの仕事をしながら、Los Angeles Conservatory of Music(現存は確認できなかったが、50年代にドン・ランディーもこの学校で学んだということなので、実在したことはまちがいないだろう。ランディーによれば、LAのダウンタウンにあったようだ。ドン・ランディーのインタヴューを読む)という音楽学校で理論や作曲などを学んだ。
 1964年ごろ、ボビーはロカビリー・シンガーのジョディー・レイノルズとデュエットを録音している。
 1967年、ボビーが制作したデモ・レコードが、キャピトルのプロデューサー、ケリー・ゴードンの注意を引き、同社と契約することになった。デビュー・シングルは Mississippi Delta だったが、多くのDJがB面の Ode To Billie Joe のほうを流した。南部的な雰囲気とハリウッド的な洗練が組み合わさったこの曲は、歌詞が語る謎めいたストーリーの力もあって、ビルボード・ポップ・チャートのナンバーワンになり、この曲をフィーチャーした同題のアルバムもナンバーワンになった。さらに、複数のグラミーも得ることになり、ボビーはまさにオーヴァーナイト・センセーションとなった。
 しかし、これは彼女のキャリアの大きな足かせにもなった。彼女のもうひとつの側面である、バラッド・シンガー/ライターとしての資質を見せたセカンド・シングル I Saw An Angel Die がチャート圏外に終わったのは、その兆しといえるだろう。この曲がトップ40にチャートインしていれば、その後の彼女のキャリアは異なったものになったにちがいない。
 翌68年にリリースされたセカンド・アルバム Delta Sweete は、デビュー作を上まわる出来のよさとは裏腹に、アルバム・チャート132位、シングル Okolona River Bottom Band は52位、Courtyard はバブリング・アンダー・チャートにも届かないまったくの圏外、そのB面の Louisiana Man がかろうじて100位にすべりこむに終わった。一夜にして得た名声の反動がきているのは明らかだった。
 同年の後半にリリースされたサード・アルバム Local Gentry は、シングルともどもまったくの不発だったが、ほぼ同時期にリリースされた(ということはつまり、2枚が衝突して、売り上げがスプリットされてしまったということだ)グレン・キャンベルとのデュエット・アルバムは、47週にわたってチャートにとどまり、11位にまで到達した。
 このアルバムからの最初のシングル Mornin' Glory こそ74位どまりだったものの、2枚目のシングルのB面、Let It Be Me は36位、さらに70年になってリリースされた3枚目のシングル All I Have To Do Is Dream は、おそらくはこの2年のあいだに、自分のテレビ・ショウをもつほどの大スターになっていたグレン・キャンベルの力で、27位にまでいった。
 これほどの長きにわたってデュエット盤が売れつづけたのは、グレン・キャンベルの人気が高まっていったおかげであって、ボビーにとってはむしろマイナスのほうが多かったのではないか。このヒットの間にリリースされたナッシュヴィル録音のアルバム、Touch'Em With Love、そして同題のシングルはともに不発だった(このアルバムからカットされた I'll Never Fall In Love Again はイギリスでナンバーワンになった)。
 翌70年のメンフィス録音のトラックをふくむアルバム Fancy は、タイトル・カットのシングルがトップ40にチャートインしたおかげで、96位にまでのぼった。しかし、これが最後のチャートインで、全曲をボビーのオリジナルで固めて、みずからプロデュースした71年のアルバム Patchwork は、Delta Sweete 以来の充実した内容であったにもかかわらず、200位にもとどかないまったくの圏外だった。
 70年代のボビーはレコーディング・アーティストではなく、ラスヴェガスを中心としたライヴ・アクトであり、みずから曲を書き、衣装をデザインし、演出をしたショウで人気を呼んだ。
 時期は少しさかのぼるが、ボビーは69年に、ラスヴェガスの「カジノ王」ビル・ハラーと結婚し、ふた月半後に離婚した。このときボビーは25歳、ハラーは58歳と年齢が離れているうえに、片方はスター、片方は大金持ちだったので、当然、おおいなる興味を喚んだし、この結婚/離婚はボビーに相応の財産をもたらしただろう。78年にはボビーはジム・スタフォード(Spiders and Snakes や My Girl Bill などのヒットがあり、60年代はじめには、グラム・パーソンズやロボとともにレジェンズというバンドを組んだこともあった)と結婚し、息子を得て離婚した。
 80年代のどこかの時点で、ボビーはいっさいの音楽活動をやめ、引退した。といっても、一部でいわれているように「隠遁」したわけではなく、ロサンジェルス郡のどこかの町でふつうに暮らしているらしい。
 私見では、Ode To Billie Joeのセンセーションのおかげで、彼女が現役のシンガーとしてすごした十数年のあいだは、ボビー・ジェントリーの真の価値はついに見いだされることがなかった。ここに提供した音源は、もちろん、どう聞いてくださってもかまわないのだが、ひとつだけお願いがある。ビリー・ジョーのことはもう忘れてほしい。これだけの時間がたったのだから、それはむずかしくないはずだ。ビリー・ジョーの歌い手ではないと思えば、彼女が残したカタログには、未発見の宝石が数多くちりばめられていることがはっきりと見えてくるだろう。(鶴岡)




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