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 このページは、ご意見板のご意見番、鶴岡さんが投稿されたものを、BBSで消えて行くにはあまりにも惜しいと思い、転載させていただいたものです。快く了承し、加筆までしていただいた鶴岡さんに感謝しつつ、みなさんご一緒に思いを遙か太平洋の彼方のスタジオへと飛ばしましょう(^^ゞ

アール・パーマー( Earl Palmer )覚書

 この一文は、1940年代終わりから現在にいたる半世紀のあいだ、ニューオーリンズとロサンジェルスで活躍したセッションドラマー、「バックビートの発明者」のひとりと目される、アール・パーマーのキャリアを概観するものです。アーティストについてはさまざまな資料がありますが、セッションプレイヤーに関するまとまった資料は稀で、そういうアンバランスを少しでも解消したいと考え、さまざまな書籍やライナーなどの断片的な情報をつなぎ合わせて、LAのセッションマンに関心のある方たちの参考に供しようと考えて書いたものです。アール・パーマーがこの半世紀のあいだに録音したトラックは4万曲弱、しかも現在も更新中と、The Most Recorded Musicianの称号をハル・ブレインと競っているほどで、おそろしく音源が多いため、この一文では50年代の録音のみを対象にします。60年代以降については、Add More Musicのメッセージボード「ご意見板」に少しずつ投稿していくつもりです。

The Early Years Down in New Orleans

 ニューオーリンズのラテンクォーターの近くに、ショウ芸人の子どもとして生まれたアール・パーマーは、5、6歳ごろからタップダンサーとして母親とともに舞台に立つという子ども時代を送り、長じてドラマーとなり、1945年に陸軍を除隊して、ニューオーリンズのトランペッター、デイヴ・バーソロミューのバンドに入りました。
 1949年、ファッツ・ドミノがデイヴ・バーソロミュー・バンドをバックに、バーソロミューのプロデュースによって、The Fat Manを録音することになり、これがアールにとって、ステージドラマーからスタジオドラマーへの転機となりました。以後、彼はバーソロミュー・バンドがバッキングするセッションや、バーソロミューのプロデュース作品でセッションワークをおこなうようになっていきます。ファッツのボックスにはミュージシャン・クレジットがないので、ほかに確認できるのはBlueberry HillAin' That a Shameなどの数曲しかありませんが、とりあえずI'm Walkingを代表的プレイとしておきます。アールの教則ビデオによると、この曲では、ちょっと新しいことをやってみようと思い、シンバルを使わずに、スネアをシンバル代わりにしたそうですが、これが変化して、後年、LAで彼自身やハル・ブレインが、スペクターやビーチボーイズのトラックで見せた、シンバルなしのスネアのみ、またはスネア&フロアタムのビートだけというプレイにつながったのではないかと思われます。
 Capitolの4枚組ニューオーリンズR&Bアンソロジー"Crescent City Soul"は、この時代のアールの仕事を概観するには便利ですし、なによりも、トラック単位のクレジットが助かります。これを見ると、スマイリー・ルイス(I Hear You Knocking)、シャーリー&リー(Let the Good Times Roll)、エイモス・ミルバーン、リー・アレン、チャールズ・ブラウン、ジョー・ターナーなど、アールが多くの録音に参加していることがわかります。
 The Big Beat収録のインタビューによると、アールはこの時代にニューオーリンズのドラマーたちとともに「バックビートの発明」に参加したようです。彼ら以前にも、ドラムで「ダウンビート」にアクセントをつけることはあったが、それはあくまでも軽いビートであったり、要所での飾りであったりで、曲全体を通して2拍と4拍(彼らは「2&4」と呼んでいて、これは便利な用語です)に強いアクセントをつけはじめたのは、アールをはじめとするニューオーリンズのドラマーだったというのです(前述の教則ビデオでも同様のことをいっています)。
 つぎに重要なのは、Lawdy Miss Clawdy(1952年)などで有名なロイド・プライスです(ジョン・レノンがカバーしたので、Just Becauseもいまでは重要曲といえるでしょう)。バーソロミューがプライスのプロデューサーだった関係で、アールが参加したと推定されます。そして、プライスがSpecialtyのアーティストだったおかげで、さらなる重要アーティストにつながることになります。
 それが、いわずと知れたリトル・リチャードです(1955年から)。Slippin' and Slidin'LucilleTutti Fruttiなどのリチャードの曲は、ロック史の里程標であると同時に、アール・パーマーの50年代の仕事のなかでもひときわ重要なプレイといえます。また、リチャードのセッションでは前述のシンバルなしのプレイが多用されていて、あるいは、ファッツのセッションではじめて使ったというのはアールの記憶ちがいで、先にリチャードのセッションで使いはじめた可能性もあると思われます。以上、ここまでの楽曲はすべてニューオーリンズ録音です。

Conquering the Hollywood Studios

 リトル・リチャードのプロデューサーはバンプス・ブラックウェルで、これがアールにとってのつぎのステップ、LA移住につながります。60年代にハリウッド産のポップミュージックが世界を席巻するうえで、アール・パーマーのLA移住は大きな意味をもっていたと考えられます。以下、Del-Fiのリッチー・ヴァレンズ・ボックスのライナーにもとづいて、アールがLAに移住し、たちまちのうちに売れっ子ドラマーになっていく経緯を概観します(ハル・ブレインは「アール・パーマーは当時のLAのキング・オヴ・セッションマンだった」といっていますし、後述するリック・ネルソンの伝記の著者は、アールをthe dean of the studio musiciansと呼んでいて、売れっ子どころか、たちまち重鎮的存在になったようです)。
 1957年、Specialtyはロイド・プライスのバンドでピアノを弾いていたラリー・ウィリアムズを、バンプス・ブラックウェルのプロデュースでデビューさせることになります。しかし、録音はニューオーリンズではなく、同社の地元であるLAでおこなうことになり、アールもLAに呼ばれます。彼のLA移住のきっかけがいままで不明だったのですが、そういうことだったようです。ただし、60年代にアールのバックで歌ったボビー・ヴィーは「リチャードといっしょにLAに引っ越したニューオーリンズのリズムセクション」といっていて、ふたつの出来事が重なった可能性もあります。事情はどうあれ、アールの移住によって、LAポップの黄金時代を支える柱のひとつ、ニューオーリンズの血がここで導入されたわけです。ウィリアムズの代表作は"Here's Larry Williams"でしょうが、これではビートルズがカバーしたSlow DownDizzy Miss LizzyBad Boyの3曲がそろわないので、編集盤のほうがよいでしょう。アールのプレイは、リチャードのときより洗練され、かすかにポップの匂いがしはじめています。
 ラリー・ウィリアムズがデビューした57年、同じSpecialtyのアーティストだったサム・クックが、ソウル・スターラーズから独立して、ゴスペルシンガーからポップシンガーへ転身しようと決意し、近年、"Sar Record Box"に収録されて日の目を見たデモを制作し、そのテープをリチャードやウィリアムズのプロデューサーであるバンプス・ブラックウェルに送ります。バンプスはこのデモのなかから数曲を選び、アールやルネ・ホールなどを使って、正式ヴァージョンを録音します。しかし、このレコーディングがあまりにもポップよりだったために、Specialtyの社長、アート・ループはリリースを拒否し、バンプスを首にしてしまいます(かわってソニー・ボノが雇われる!)。バンプスは設立されたばかりのKeenレコードにこのマスターを持ち込み、アールがプレイしたYou Send Meはここでシングルとして発売され、ナンバーワン・ヒットとなります。
 そして、サム・クックのポップへの転身を大成功に導いた記念すべきこの45のB面、Summertimeはキャロル・ケイさんのスタジオ初仕事です(ギター。非常に気になるところなのでEメイルでご本人に確認したところ、「You Send Meはすばらしい曲だけど、残念ながら私はプレイしていない」とのことでした。ホントに残念。タッチの差だったのに)。彼女のバイオには、クラブでプレイしていたときにバンプスにスカウトされたとあります。かくして、バンプスを介し、アール&キャロルという、後年の強力無比なモータウン・リズム隊がここに顔を合わせたわけです。
 Keenレコードのボブ・キーンは、共同経営者のジョン・サイアマスと衝突して、1957年9月にDel-Fiレコードを設立し、翌58年暮、リッチー・ヴァレンズのLa Bamba/Donnaで大当たりをとります。アールがドラム、キャロル・ケイがサイドギター、ルネ・ホールがダンエレクトロ・ベースギター(「ダノ」と略す。4弦ベースの上下に弦を増やす近年の6弦ベースの主流とは異なり、ダノはストレートにギターを1オクターヴ下げたチューニング)という、クックのセッションに近いメンツがここでも顔をそろえています。また、La Bambaは、後年クルーが多用するダノのごく初期の使用例と思われ、その点でも重要です。以上で、ヴァレンズ・ボックスの参照を終わります。
 なお、手元にあるDel-Fiのアンソロジーを聞くと、ヴァレンズ以外にも、アールのドラムやダノが入っているトラックがかなりあります。プレイヤーの動きを観察するには、レーベル、プロデューサー、アレンジャーに着目するのがいちばんですが、Del-Fiもやはり、同じミュージシャンをさまざまなセッションに使ったのでしょう。

Other Notable Recordings in the 50s

 アールの50年代のLA録音で資料の裏付けのあるものとしては、ほかにエディー・コクラン、リック・ネルソン、ジャン&アーニー(すぐにメンバーが替わってジャン&ディーンとなる)、ジョニー・オーティス、アーニー・フリーマン・コンボなどがあります。
 リックについては、EMI-USAのベスト盤のライナーと、"Teenage Idol, Travelin' Man: The Complete Biography of Rick Nelson"という彼の伝記のあいだには意見の相違がありますが、確実にアールが参加したといえるのはA Teenager's RomanceYou're My One and Only LoveというVerveでの2枚のシングルだけです。プロデューサーは、当時VerveのA&Rのチーフだったバーニー・ケッセル、アール以外のプレイヤーとしては、プラズ・ジョンソンとマール・トラヴィスの名前が見えます。Teenager's RomanceのB面はI'm Walkin'で、録音は1957年3月26日となっています。この曲のファッツによるオリジナル・ヴァージョンが同年1月3日録音ですから、この両方の録音に参加したアールのLA移住は、この時期だったと推定できることになります。
 リックは上記シングル2枚を残して、彼のアイドルであるファッツ・ドミノと同じImperialに移籍します。ベスト盤のライナーは、Imperial移籍後のドラマーをリッチー・フロストとしていますが、伝記ではImperial初期もアールとなっています。じっさいに聴いても微妙なところで、判断しかねます。いずれにしても、まだ16、7歳だったリックは、ロックンロール的感覚をもたない、ジャズミュージシャンを中心としたセッションメンバーに不満をもっていました(ただし、伝記は「アール以外の」と明言しています。アール・パーマーこそがロックンロール・ビートそのものだったのだから当然ですが)。もっと新しい感覚をもったミュージシャンを探していたある日、リックはImperial本社の一室で、ボブ・ルーマンのリハーサルを目撃し、そのバックバンドのプレイがすっかり気に入って、彼らを雇うことにします。それがジェイムズ・バートンのバンドです(当初はライヴやテレビのみだったのが、やがてレコーディングにも使われるようになったとのことです)。そして、バートンの友人だったジョー・オズボーンも、やがてこのバンドに参加します(当初はアップライトベースだったのが、フェンダーベースに替えることになって、バートンがオズボーンを推薦したと考えられます)。後年、LAのスタジオの柱となるミュージシャンたちが、こうしてシーンに登場したわけです。
 以上、やや寄り道でしたが、バートンとオズボーンという大物が登場する経過に、アールもまんざら無関係ではなかったわけです。また、これでおわかりのように、バートンに関心をお持ちの方は、まずボブ・ルーマンとリックを、オズボーンに関心がおありの方は、60年代に入ってからのリックをお聞きになるとよいでしょう。とりわけリックがDeccaに移籍してからは、例のサウンドが明瞭になり、一発でオズボーンだとわかります。
 英EMIのエディー・コクラン・ボックスに付されたセッショノグラフィーによると、アールが参加したトラックで記録が残っているのは1958年に入ってからで、なかでも、のちに重要なロック・クラシックとなるSummertime Bluesに参加していることは特筆に値します。しかし、音から判断すると、メンバー不明と記されている57年秋の一連のセッションの一部はアールのプレイに聞こえます。コクランはリッチー・ヴァレンズと親交があり、その関係でアールが参加したのかもしれませんが、いずれにしても、コクランのセッションはアールにとっては得意先となるLibertyへの足がかりになったと思われます。
 アールがはじめからジャン&ディーンに参加していることも注目に値します。Vareseの編集盤"Teen Suite 1958-1962"によると、Arwinのジョー・ルービンが、アール、プラズ・ジョンソン、アーニー・フリーマン、ルネ・ホールという、ヴァレンズやフリーマン・コンボの中核メンバーをひいきにしていたために、ジャン&アーニーのデビュー盤から彼らが参加します(A面は微妙ですが、B面のGotta Getta Dateからはまちがいなくアール。これはリズムの乱れたトラックにオーバーダブしたため、冒頭でアールが必死になって合わせるところが楽しい)。ジャン&ディーンは、いわば60年代への序曲で、アールのキャリアにとっては非常に重要と思われます。
 アールが参加した時期のジョニー・オーティスの音源は、現在では"Capitol Years"というアルバムにまとめられていますが、これはR&B、ラテン、ポップの混合で、アールのプレイもなかなか興味深く、また、ここでもプラズやアーニーというレギュラーが登場します(のちにJB'sで活躍するジミー・ノーランのプレイも貴重)。
 また、ヴァレンズやオーティスのセッションで顔を合わせたピアニスト、アーニー・フリーマンの自身名義の録音にもアールは参加していますが、これは現在はAceの編集盤"Raunchy"にまとめられていて、インストファンにはお勧めできます。プラズのサックスも大活躍です。フリーマンはのちにLAの代表的アレンジャーとなり、シナトラをはじめとするリプリーズのアーティストのアレンジで名を売ります。
 それから、クレジットはありませんが、トリオを解散して、ソロとしてLibertyと契約してからのジョニー・バーネットは、ほとんどアールの仕事と思われます。Capitol移籍後はハル・ブレインと推定されますが、Dreamin'You're Sixteen(のちにリンゴがカバー)といった大ヒットはアールでしょう。EMI-USAのベスト盤が手際のよい編集です。このジョニー・バーネットをはじめとするLibertyのスナッフ・ギャレット・プロデュース作品は、60年代初頭にかけてアール(およびフリーマン)の稼ぎ場となります。
 さらに細かいところでは、ハル・ブレインがはじめてアールに会ったのはダイアモンズの仕事でだった、とハルの本に書いてあります。昔買ったライノのベストLPを聞くかぎりでは、アールがいるのはたしかですが、ハルだと確信のもてるトラックはありません。

His Contribution

 50年代のアールからは、You've Lost That Lovin' Feelin'のプレイは予想できませんが、むしろスペクターとの仕事が例外で、LA移住直後には60年代のスタイルがすでにできあがりつつあります。また、彼の周辺のプレイヤー、アレンジャー、プロデューサーも60年代につながる人々が徐々に顔をそろえはじめている点からも、50年代のアールの動きは重要です。
「アールは例のニューオーリンズ・スタイルのダウンビートをLAにもちこんだ」とハルがいっていますが、まず、ポップ主流には強いバックビートが存在しない時代というのをリアルにイメージし、しかるのちに50年代のアールを聞くと、ハルのコメントが実感でき、アール・パーマーがLAのサウンドにある種の革命を起こしたことが理解できます。
 なお、キャロル・ケイさんのボードの98年12月30日あたりに、アール、ハル、ポール・ハンフリーなどに関する、彼女の興味深いコメントがあります。また、彼女のサイトのサウンドファイルのページからは、アールのプレイもダウンロードできます。また、アールの自伝は"Backbeat: The Earl Palmer Story"とタイトルが決まり、3月に刊行されることになったそうです!
(キャロルさんのボードに、アールがジェイムズ・ブラウンの録音に参加したとありますが、曲はもちろん、時期もわかりません。ご存知の方がいらしたらご教示をお願いします。)

 アールに関するさまざまな資料を提供してくださった大野さん、この一文を書く機会を提供してくださった木村さん、そして、ボードで励ましてくださった、すまいる魔人Yoshiさんにお礼を申し上げます。
 なお、この一文の文責はすべて鶴岡にあり、なにかご意見、反論、お問い合わせなどがある場合は、Add More Music to Your Dayのメッセージボード「ご意見板」に書き込んでいただくか、鶴岡にEmailをお送りください。

2008年9月19日、アール・パーマー氏は84才で天に召されました。現在、追悼の気持ちを込めて、鶴岡さんがご自身のブログSongs For Four Seasonsで追悼特集を連載中です。ぜひご覧下さい。(木村)