Motown Mystery: sec.3


ハリウッドの隠し子



 一昨年の夏、長年の抵抗をやめて、わが家のコンピューターをネットワークにつないだ。直接の理由は、NYの友人と共訳をしようと思ったからだったが、仕事だけが理由でなにかをするほど殊勝な人間ではないので、目的はほかにもあった。ネットにつながって最初にやったのは、その仕事以外のこと、つまり、ハル・ブレインのアドレスを見つけることだった。
 検索エンジンではたいしたことが見つからず、だれか関係者が見つかる幸運を願って、わたしはビーチ・ボーイズ・ファンのBBSにいった(あとでわかったことだが、ハルはタイピングもコンピューターも大嫌いで、この時点では、周囲のすすめにも頑として応ぜず、代理人を通してのコンタクトしか受けつけていなかった。したがって、Webサイトどころか、Eメイル・アドレスすらもっていなかった。99年秋になって、やっとハルのサイトが登場した)。そのBBSに書き込んだ、ハル・ブレインの情報を探しているというわたしのメッセージを見て、ブライアン・ウィルソンのファン・クラブを運営している女性と、もうひとりの男性が、キャロル・ケイにコンタクトをとってみろ、彼女はWebサイトをもっている、という返事をくれた。
 そして、女性のほうは、ハルは自分の近所に住んでいる、このあいだ、彼がキャロル・ケイといっしょに歩いているのを見かけた、とまでいっていた。キャロル・ケイのアドレスが見つかるとは思っていなかったので、わたしは喜び勇んだ。
 教えられた The Officeal Carol Kaye Web Site にいくと、この伝説のベーシスト、ビーチ・ボーイズの世紀の傑作『ペット・サウンズ』の堅固な土台をハル・ブレインとともに築いた女性の、はじめて見るカラー写真が出迎えてくれた。ぜひ詳しい経歴を知りたいものだと、秘かにあこがれていた人に出会えて、わたしはニコニコと微笑んでしまった。
 だが、トップ・ページに並んだリンクのひとつ「ベース・ヒッツ」をクリックして、ベーシストとしての彼女の業績を読みはじめた瞬間、血の気が引いた。そこには、もちろん、われわれがよく知っている彼女の代表作、ビーチ・ボーイズやフィル・スペクターのヒット曲も並んでいたが、それはすでにわかっていたことで、驚きはない。
 問題は、そうしたハリウッドの産物として歴史にきちんと記録されたヒット曲ではなく、ハリウッドとは2000マイルもへだたった、デトロイトの産物とされていたもののほうだ。スプリームズ、フォー・トップス、スティーヴィー・ワンダー、テンプテーションズ、アイズリー・ブラザーズ、ブレンダ・ハロウェイ、マーヴィン・ゲイといったモータウンのスターたちと、1960年代の遺産ともいえる、モータウンの大ヒット曲がずらっと並んでいたのである。
 いったい、これはどういうことだ!
 みんながみんな口をそろえて、ジェイミー・ジェマーソンは偉大だと叫び、彼のプレイを解析する研究書まであるじゃないか、あれはまちがいだったのか? なんということだ。これはもう、直接、ご本人に聞いてみるしかない。どちらにしろ、彼女にEメイルを送るつもりだったのだ。内容を少し修整するだけのことじゃないか――。
 じつは、複数の理由から、キャロル・ケイにEメイルを送ったときにはすでに、彼女がモータウンのヒット曲でベースを弾いたというのは事実だと信じていた。 キャロル・ケイ(60年代中ごろ) その理由をひとつだけあげておく。ひと口にモータウンといっても、大きくスタイルの異なるベースが存在し、わたしが好きだったのは、フォー・トップスのように、高音部をうまく使った、メロディックで知的な和声構造をとったプレイのほうだった。たとえば、ビーチ・ボーイズのベースは、そうした和声構造の例としてよく知られている。キャロル・ケイとモータウンがむすびついた瞬間、わたしはビーチ・ボーイズのことを考え、自分が先入観にがんじがらめになっていたことに気づいた。
 ハリウッドのミュージシャンは音楽スタイルを選り好みしない。フランク・シナトラからフランク・ザッパまで、モンキーズからドアーズまで、依頼があれば、なんでもやる *注1。R&Bにしても例外ではない。そして、彼らが大ヒットを連発すると、国内各地はもちろん、イギリスやオーストラリアからもクライアントが殺到するようになった。モータウンだけをアプリオリに除外する理由はなかったのである。だから、彼女に質問したかったのは、事実か否かではなく、リストにあがっていない曲はどれくらいあるのかといった、もっと詳しい情報だった。
 さっそく、返信が届いた。いや、怒濤のようになだれ込んできた。そして、徐々に事情がわかってきた。どんなことでもそうだが、事情がわかってみれば、筋が通っていたことに気づくものだ。彼女がLAのセッション・ベーシストの第一人者であり(これは多くの関係者が認めるところ)、モータウンは1963年ごろからLAにオフィスをもっていて、LAでレコーディングをし、したがって、第一人者である彼女にしばしば依頼があり、彼女のディスコグラフィーにモータウンの大ヒット曲が並んだ、というのだ。
 だが、問題がある。これでもいちおうはモータウンのファンで、多少は資料を読んだが、モータウンがLAで大々的にレコーディングしていたなどとはどこにも書いてない。よく知られているのは、ジャクソン5がLA録音だったということで、これは1969年以降の話だ。わたしはつねに、この年をモータウンのLA移転の年と考えていた(資料を見ても移転の時期はまちまちだ。ネルソン・ジョージ著『モータウン・ミュージック』によると、オフィスそのものはかなり古くからあり、1969年に正式にLA移転計画が発表されて、1971年にじっさいの移転がおこなわれたという。なんとも歯切れの悪い言い方だが、ここでは追求しない。すくなくとも、松竹が蒲田撮影所を閉じて、大名行列のように大船撮影所に乗り込んだような意味での「移転」ではなかったことを強く示唆している *注2)。
 いまだに万人が認めるわけではないどころか、事実無根であると反論している人たちもいるので、本来なら順序立てて証明する必要があるが、これは論文ではないので、前提条件だの、証拠だの、傍証だの、論証だのをすっ飛ばして、このときにわかった事実をさっさと並べることにする。
 まず、モータウンは1962または3年にLAにオフィスを開いた。場所はヴァインとサンセットの角にあるキャピトル・タワー。そして、モータウンのオフィシャルは、会社としてのLA移転は1960年代終わりであるとしていて、それ以前のLAでのレコーディング活動にはふれたがらない。したがって、LAの音楽業界の外にはモータウンLAの活動は知られていなかったし、音楽ジャーナリズムも、この事実を知らないか、または、知っていても、モータウンの要請にしたがって知らないふりをした。
 じっさいには、63年ごろのLAオフィスの開設とともに、LAでのレコーディングもはじまった。キャロル・ケイがあげた曲のうち、時期的にいちばん古いのは、1964年3月に発売されたメアリー・ウェルズの「マイ・ガイ」*注3で、 Mary Wells このとき、ケイはギターを弾いたという(彼女はギタリストとしてスタートし、のちにベースに転じて、こちらで有名になった)。ちなみに、この曲のすばらしいベースはアーサー・ライトが弾いた。キャロル・ケイの個人的な印象では、1960年代のモータウンのヒット曲のうち、3分の1ほどがLA録音ではないかという。また、フィル・スペクターとともにフィルズ・レコードを設立し、のちにモータウンの出版部門であるジョービートの社長を務めたレスター・シルは、モータウンのヒット曲の約6割がLA録音だと概算していた。わたし自身は、この二つの数字を最小と最大として、その中間のどこかに実数があると見ているが、1965年から69年にかけての期間にかぎると、レスター・シルの数字に近いか、オーヴァーしているように思われる。あの怒濤のヒット連発を支えたのは、デトロイトではなく、LAのリズム・セクション、とりわけキャロル・ケイとアール・パーマーだったと考えているのである。
 細かいことは抜きにして、わかりやすい有名どころをあげるなら、スプリームズとフォー・トップスのヒット曲のほとんどは、LAで録音されたと考えれられる。ドラムとベースは、主としてアール・パーマーとキャロル・ケイのコンビで、スプリームズのシングル曲に関していえば、ハル・ブレインが初期に1、2曲(おそらく「ベイビー・ラヴ」)と「ザ・ハプニング」、60年代終わりにはポール・ハンフリーがドラムを叩くようになる。キャロル・ケイのモータウンでの仕事は、1963年にはじまり、彼女がポップ系セッションを一時的に中断した1969年ごろまでつづいた。
 また、モータウンは当初、LAのミュージシャンたちに対して、これは本番のテイクではなく、デモであるといって、通常のセッション料金より安い金額を「キャッシュで」払った(したがって支払記録が残らないし、当然、ノン・ユニオンなので、アメリカ音楽家組合所定のコントラクト・シートも残らない。これがあとになって大きな悪影響をおよぼした)。キャロル・ケイ自身は、あまり好きではないサーフ・ミュージックなどのセッションにうんざりしていたので、クリエイティヴな仕事ができる点を考慮して、料金が安いことと、ユニオンを通さないので年金の積み立てにならないことには目をつぶった。だが、のちに、モータウンLAセッションの中核的ドラマーだったアール・パーマー(べつのミュージシャンだったという説もあるが)が、自分たちがプレイしたトラックがそのままレコードになっているのを発見し、最終的にミュージシャン・ユニオンLA支部があいだに入って、デモと本番の差額がミュージシャンに支払われた。
 まだ、いろいろなことがわかったが、大筋は以上のようなことだった。だが、これはすべて過去の話である。受信トレイにキャロル・ケイからのメッセージが積み重なっていくうちに、現在の話がわかってきた。過去のエコーとしての現在、それもスペクターのようにとほうもないエコーとしての現在の話が、しだいに明らかになってきたのである。


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