寄り道1

ビング・クロスビーと
アンペックス・テープ・マシン



 レス・ポールは自分のバンドでプレイするだけでなく、アンドルーズ・シスターズをはじめとする他のアーティストのバッキングの仕事もしていた。とりわけビング・クロスビーとの仕事は大きな収穫をもたらした。
 1940年代前半、ネットワークは録音した音楽を流すことを禁じていた。16インチの放送用トランスクリプション・ディスクの音質はかなりよかったが、どうしても編集しなければならないケースが多く、世代を重ねると劣化をまぬがれなかったからだ。また、一説によれば、ネットワークとはライヴァル関係にあった「シンディケート」(番組を制作して独立局に配布する)が、16インチ・ディスクを配布メディアに使っていたからだともいう。
 たとえば、東部からの「トランク・ライン」(幹線)の中継が切れて、カリフォルニアにプログラムが届かなくなった場合でも、レコード音楽を流してその場をしのぐということはしなかった。ハリウッドのサンセット&ヴァインにあったNBCには、「スタンバイ・スタジオ」と呼ばれるホテルの部屋ぐらいの小さなスタジオがあり、ここにピアノが一台とコントロール・ブースが二つ用意されていた。中継が切れると、だれかがこのスタジオに飛び込み、ライヴでピアノを弾いたのである!

NBC on Sunset and Vine
ハリウッドのNBC

 ビング・クロスビーはこの時代の大スターだから、当然、レギュラーのラジオ番組をもっていた。レス・ポールがクロスビーのバッキングをしたのはその番組、『クラフト・ミュージック・ホール』(いまもあるチーズのクラフト社の提供)でのことだった。そして、この番組も当然、ライヴで放送されていた。
 ビングはこれが気に入らなかった。毎週、夜遅くスタジオに入るというスケデュールに束縛されたくなかったのである。しかも、東部と西部の時差のために、同じ内容の放送を、時間をずらして繰り返さねばならず、彼の苦痛は二倍になった。ビングは録音による放送を主張したが、トランスクリプション・ディスクの音質の悪さを理由に、これが受け入れられなかったため、1945年にこの番組を降りることになる。

Checking of a 16-inch lacquer master
16インチのラッカー・マスターを検査するCBSの技師

 しかし、ビングのスターとしての価値が下落したわけではないので、彼の条件を呑むスポンサーとネットワークがあらわれた。ラジオ受信機や電気蓄音機などの製造で知られたフィルコ社とABCネットワークである。フィルコとABCは、ビングに録音による放送という自由と破格の金額を提示しただけでなく、番組制作自体も彼の会社クロスビー・エンタープライズにまかせ、ビングに考えられるかぎりあらゆるものをあたえた。
 しかし、1946年10月から翌47年6月にかけてABCネットワークで放送された『フィルコ・ラジオ・タイム』第1シーズンの聴取率は低迷した。その原因は、録音による音質の悪さだと考えられた。オリジナル・ディスクで放送できればまだしも、時間調整などのためにしばしば編集がおこなわれ、マスターから数世代目のディスクがオンエアされることもめずらしくなかったのである。このままでは第2シーズンをはじめるわけにはいかなかった。
 ドイツでは、第2次大戦中からすでにテープレコーダーが放送に使われていた(アメリカでも第2次大戦前にワイヤー・レコーダー――ワイヤーを記録媒体にする――が開発され、じっさいにラジオ放送に利用されたこともあったようだが、普及はしていなかった。音質または操作性に問題があったのかもしれない)。このテープレコーダー「マグネトフォン」は30ipsという驚くべきテープ走行速度で(レス・ポールにいわせると「回転中にリールが壊れたら、部屋にいる人間が五人は死ぬ」ほどだった!)、当然ながら音質も、33回転の放送用トランスクリプション・ディスクなど比べものにならないほどすぐれていた。

Megatophon tape machine
ドイツAEG社の「マグネトフォン」テープ・マシン

 戦中戦後にかつてのドイツ支配地域に入った連合軍兵士のなかには、このマグネトフォンの先進性に目をつけた人間が数人いた。彼らはこの機械を解体してアメリカに持ち帰った。そのひとり、ジョン・マリンは、サンフランシスコで映像音響会社を営むウィリアム・A・パーマーとともに、ドイツから持ち帰ったマグネトフォンでビジネスをはじめ、まずMGMで映画サウンドトラックの仕事をした(それまではMGMが開発した光学録音システムが使われていた)。1946年のことだった。
 翌47年、マリンとパーマーは、クロスビー・エンタープライズで『フィルコ・ラジオ・タイム』を担当していた技術主任マードー・マケンジーに、テープ・マシンのデモをおこなうように依頼を受けた。マリンはこのデモで、テープの音質がすぐれていることと、すばやく編集して放送可能なプログラムをつくれることを証明し、『フィルコ・ラジオ・タイム』には、第2シーズンからマグネトフォンによる録音が採用されることになった。ただし、テープの信頼性が疑問視され、テープを編集することでマスターを作成して、それをディスクに起こし、オンエアにはこのトランスクリプション・ディスクが利用された。
 クロスビー自身もテープ・マシンのことはこれ以前にすでに知っていた。あるとき、ビングはレス・ポールに「きみはいいな。こういう機材が家にそろっていて、どこにもいかなくても仕事ができるじゃないか。ぼくなんか、なにをするんでもいちいちスタジオにいかなくちゃならん」とボヤいた。
 このころ、レス・ポールはニューヨークから放送されるラジオ番組をもっていて、ジュディ・ガーランドとともに定期的に東部に出かけていた。そうした折りに、マリンと同様にドイツからマグネトフォンを持ち帰った元軍人と知り合い、レスターはこの人物をビングに紹介した。「この機械があれば、ゴルフ・リンクのど真ん中で録音することだってできるぞ」といったとか。
 ビングはこの機械がすっかり気に入り、「いますぐ50台つくってほしい」といったが、この元軍人は、1年かかって1台つくるのがやっとだといった。いきなり50台つくれというほうもどうかしているが、1年かかっても1台がやっとだとこたえるほうも欲がなさすぎる。「じゃあ5台でいい」「それなら資金を提供してくれれば人を雇ってつくってみせる」といった話に発展しなかったのだろうか? いずれにせよ、これでテープ・マシンのことはいったんは立ち消えになった。
 アンペックス社は戦時中には航空機用エンジンを製造していたが、45年に戦争が終わってからは、平時に合う新しい製品、とりわけ業務用音響機器分野のものを探していた。そこへ、マリンとパーマーからテープ・マシンの製造の話をもちかけられたのである。アンペックスは1948年、AEGのマグネトフォンを土台にして、最初の製品「モデル200」をつくり、ABCに最初の2台を納入した。これはマリンによって、クロスビーのラジオ番組の収録と編集に利用され、さらにはディスクにかわって、オンエアにも使われることになった。*注1
 (ちなみに、1948年というのは、CBSが最初のLPレコードを発売した年でもある。)

John Mullin and Alexander Poniatoff of AmpexJohn Mullin with the Ampex macnines
テープ・マシンをはさんでジョン・マリン(右)とアンペックスのアリグザンダー・ポニアトフジョン・マリンとアンペックス・テープ・マシン。左がモデル200、右がその後継機のモデル300。

 マリンの証言とは多少食い違いがあるのだが、アンペックスはこのモデル200の開発製造資金をビング・クロスビーに融資してもらったのだと、レス・ポールはいっている(マリンは、ABCの発注のおかげで、アンペックスはモデル200を開発できたといっているが、結局は同じことをべつのチャンネルで表現しているようにも思える)。
 いずれにしても、クロスビーは、交通事故後、引っ込んだままだったレス・ポールに、お見舞いとしてアンペックスのテープ・マシンをプレゼントした。

Bing The Venture Capitalist with a Portable Ampex
ビング・“エンジェル”・クロスビー 彼が望まなければ、そして、資金を出資する「エンジェル」の役割を果たさなければ、テープ・マシンの普及は遅れたかもしれない。

 レス・ポールはこのプレゼントに驚喜した。すぐに実験に取りかかり、テープによる多重録音とテープ・ディレイを開発し(アンペックスから追加のヘッドを手に入れ、自分でテープ・マシンにとりつけた)、レコーディングにとりかかった。そして、"How High the Moon"の大ヒットが生まれたのである。
 なお、余談だが、クロスビー・エンタープライズ社の研究チーム(マリンがチーフだった)はこの翌年に、ヴィデオ・テープ・レコーダーのデモをおこなっている。時代はテレビへと移り、またしても、ラジオのときと同じように、ライヴ放送のスケデュールに縛られることになって、クロスビーはもう一度、自由のための道具を手に入れなければならなかったのである。



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