Track 1


ブルー・バイユーに生まれて

―Born on the Blue Bayou―





Claiborn Ave., New Orleans



もうひとつのベイビー・ブーム

 レス・ポールがハリウッドのホーム・スタジオで、500枚のラッカー盤を消費して"Lover"を録音していた1947年、ロサンジェルスで小さな独立レーベルが生まれた。ルー・チャドのインペリアル・レコードである。
 第2次大戦中から戦後にかけての数年間は、他の分野と同様、音楽や放送の世界でも戦後のありようを決めるさまざまな動きがあった。音楽業界についていえば、まず目につくのが、インディペンダント・レーベルの誕生ラッシュである。42年にアポロ、44年にはニュージャージーでサヴォイとデラックス、翌45年にはシカゴでキング、46年にはやはりシカゴで、のちにチェス/チェッカーとなるアリストクラット、さらに47年にはニューヨークでアトランティックが設立された。
 ロサンジェルスにかぎると、1942年にはキャピトルが生まれ(インディペンダントではないが、西海岸で最初のメイジャー・レーベルとして、ハリウッドの音楽界で中心的な役割を果たすことになる)、44年にアート・ループがスペシャルティを、45年にはメスナー兄弟がアラディンを、同じ年にビハーリー兄弟がモダンを、そして、前述のように、47年にルー・チャドがインペリアルを設立する(あくまでも代表的なものをあげただけで、このほかにも多くのレーベルが生まれたし、ジャズ専門レーベルも略している)。
 年代順に一覧にすると、以下のようになる。

1942年キャピトル
アポロ
1944年スペシャルティ
サヴォイ
デラックス
1945年アラディン
モダン
キング
1946年アリストクラット(チェス/チェッカー)
1947年インペリアル
アトランティック

 このような設立ラッシュが起きた理由は、まずなによりも経済的側面にもとめられる。大恐慌の傷跡は、第2次大戦による好況ですっかり消え、所得が倍増して、購買力があがった。
 大恐慌とそれにつづく第2次大戦のあいだ、15年もの長きにわたって、アメリカの大衆は耐乏生活を強いられたのだから、戦争が終わったとき、だれもがよい時代の到来を期待したのも当然のことだった。じっさい、アメリカ経済は大戦のあいだに大きく成長し、音楽業界にかぎらず、すでにあらゆる業界のパイが潜在的には巨大化していた。あとはそれが顕在化して爆発を起こすのを待つばかりの状態だったのである。
 また、大戦中に78回転盤(SPレコード)の材料であるシェラックの品不足が起こったことも、原因のひとつだと思われる(日本でも戦争中にはシェラックの輸入が途絶え、SP盤がつぶされて、電球のソケットなどに再生された)。メイジャーはレコードの生産を抑えざるをえず、手を広げる余裕はなくなったのだった。
 品不足のあとには、その原因さえ解消されれば、急速な市場の回復と大きな成長がやってくる。シェラック不足も戦後にいたって急速に解消され、こんどは音楽の消費ブームが起きた。品不足にせよ、市場の急速な回復にせよ、新興レーベルにとっては好都合な風だったことに変わりはない。ベタ凪ではつけ込む余地はないが、強風でさえあれば、風向きはどちらでもかまわないのだ。
 いっぽうで、RCA、コロンビア、デッカといった戦前からのメイジャー・レーベルは、クラシックやメインストリームの白人ポップしかあつかわず、ブラック・ジャズやブルース、そしてヒルビリー・ミュージックなどは「低級」なものとみなされ、シェラック不足も相まって、いわば手つかずの鉱脈として残されていた(もちろん、たとえばデューク・エリントンのような例外はあったし、ポータブルの機材をもって南部に出向き、「エスニック・ミュージックのドキュメント」を制作することはあったが)。

Dave Bartholomew
ハリウッドのキャピトル 古いラジオ局を転用した最初のキャピトルのスタジオ。エンジニアたちのお気に入りだった。

 新興レーベルはこの「食べ残し」に群がった。ブラック・ミュージックを低級とみなしたメンタリティーは、そもそもが人種的、階級的偏見からくるのだが、そこからべつの側面も見えてくる。戦中戦後にできたインディペンダント・レーベルの経営者たちの多くは、ユダヤ系だった。彼らはワスプが支配する「上品な」ビジネスの世界からは、はじめから締め出されていた。そうしたひとびとが、一旗揚げるための手段として、音楽に目をつけたのは当然のことだったのである。
 LAに多くのレーベルが生まれた背景には、他の都市とは異なる事情もあった。第二次大戦中、LAとその周辺の船舶や航空機の製造施設(ダグラスとロッキードの工場があった)へ政府の発注が集中し、その結果、人口と資本の集中が起きたのである。要するに「戦時景気に沸いていた」わけで、戦中戦後のLAは「ブーム・タウン」にほかならなかった。同じカリフォルニア(サンカルロス)で航空機用エンジンを製造していたアンペックスが、戦後になってテープ・マシンの製造に乗り出したのは偶然ではなかったのである。
 しかし、一旗揚げるためにそのブーム・タウンにやってきたチャドの会社は、なかなか離陸しなかった。1949年、それまで経験のなかった、いわゆる「レイス・ミュージック」(のちに「リズム&ブルース」と言い換えられる)の分野に活路を求めて、彼は南部に向かった。そして、ヒューストンのクラブで見たバンドが気に入り、ニューオーリンズから来たそのバンド・リーダー、デイヴ・バーソロミューに自己紹介をした。

デイヴ・バーソロミュー

 デイヴ・バーソロミューは、1920年12月24日、ニューオーリンズからミシシピー河をさかのぼること30マイルほどの町、ルイジアナ州エドガードで生まれた。高校時代からトランペットをプレイするようになり、やがて、ミシシピー河の外輪蒸気船「キャピトル」号で演奏していたファッツ・ピンチョンのバンドに入った。第2次大戦を軍楽隊ですごし、戦後、除隊するとすぐにバンドを組んで、ニューオーリンズのクラブで活躍するようになり、47年には地元ラジオ局の日曜のプログラムにレギュラー出演するほどの人気を得た。

Dave Bartholomew
デイヴ・バーソロミュー バンド・リーダーにしてレコード・プロデューサー、そしてクレヴァーなビジネスマン

 1949年には、ニュージャージーの独立レーベル、デラックスから出したシングル"Country Boy"がローカル・ヒットを記録する(バーソロミュー「あれは10万枚ほど売れた。1949年当時としてはたいした数字さ」)。そして、この曲のヒットのおかげで、バーソロミュー・バンドはロードに出ることになり、ヒューストンでルー・チャドに出会ったのだった。
 この時代のバーソロミュー・バンドは、バーソロミューがトランペット、ハーバート・ハーデスティー、クラレンス・ホール(ともにts)、アルヴィン・“レッド”・タイラー(bsまたはts)、ジョー・ハリス(as)、サルヴァドール・ドーセット(p)、アーネスト・マクリーン(g)、フランク・フィールズ(b)、そして、ドラムスのアール・パーマーというメンバーだった(管の編成が、トランペット×1に対して、アルト×1、テナー×2、バリトン×1と、あくまでも木管が中心で、これがこの時期のニューオーリンズR&Bの特徴となる)。このバンドがやがて、「スタジオ・バンド」の中核を形成し、50年代のニューオーリンズR&Bを生み出すことになるのである。
 アール・パーマーにとっては、バーソロミューの"Country Boy"が最初のレコーディングだった。この時代のバーソロミュー・バンドについて、彼はこういっている。
 「あのバンドはR&Bはほとんど演らなかった。まだR&Bは流行っていなかったんだ。われわれがやったのは、ファンキー(*注1)な味を加えたブルースだった」

アール・パーマー

 アール・パーマーは1924年10月25日に、ニューオーリンズのラテン・クォーターの西にある一郭トレメで生まれた。母は父親がだれかは教えてくれなかったが、周囲の人々は、バーソロミューのかつてのボス、ファッツ・ピンチョンが父親だというので、アールはピンチョンのことを「パプス」(親父さん)と呼んだ。5歳のときには、母親とともにレヴューのステージに立ち、タップ・ダンスを踊った。やがて少年ダンサーとして各地で評判を呼ぶようになるが、第2次大戦勃発で陸軍に招集されることになる。1945年、大戦の終結で除隊してからは、さまざまな仕事をし、やがてクラブでドラムを叩くようになった。

Earl The Baby Dancer
ザ・ベイビー・ダンサー アール「オレはあのあたりでは文句なしのトップだった」

 「GIビル」(除隊した軍人を支援する奨学金)を使えるようになると、友人の薦めでグリューネヴァルト音楽学校に入り、ドラムやアレンジメントを学んだ。そして1947年、22歳のときにアールはデイヴ・バーソロミュー・バンドのドラマーとなった。後年、バーソロミューはいっている。
 「アールはニューオーリンズでいちばんのドラマーだった。町中が彼の噂をしていたものさ。ニューオーリンズにはすぐれたミュージシャンがたくさんいたが、だれもがアールの腕を買っていたんだ」
 若き日のアールがもっとも愛した音楽は、チャーリー・パーカーやディジー・ガレスピーが生みだした最新のスタイル、ビーバップだった。しかし、「ビーバップはマス・ムーヴメントなんかではなかった」とアールはいう。
 のちにJ&Mスタジオを開くコジモ・マターサは、「これからはビーバップの時代だ」と思い、ニューオーリンズのランパート・ストリートに、「バップ・ショップ」というレコード店を開いた。だが、ことは彼の思惑どおりにはいかなかった。一時間も試聴したあげくに、なにも買わずに帰ってしまう客ばかりだったのだ。「ビーバップはそれほどコマーシャルではなかったんだ。儲けもなにもあったものじゃなかったよ」

Cosimo Matassa
コジモ・マターサ アール「コジモはちょっとした天才というところさ」

 アールはいう。
 「ジャズを味わうには、それなりに頭を使わなければならない。でも、ふつうの人たちは、ただ足を踏みならし、尻を振ることのできる場所にいきたいだけだったんだ」
 結局のところ、ビーバップは先端的な若者の音楽という状態を脱することはなかったが、ビーバップに熱中した若いミュージシャンたちが、やがて、アメリカのポップ・ミュージックを支えるスタジオ・ミュージシャン群の中核を形成することになる。
 デイヴ・バーソロミューは目端のきくバンド・リーダーだったので、金にならないビーバップはやらず、ストレートなジャズやダンス音楽といった、あくまでも「客を呼べる」ものをプレイした。アールはバーソロミューのバンドで生活を安定させながら、仕事が終わったあとのクラブでのジャムで、みずからの音楽的嗜好を満足させた。

ザ・ファット・マン

 バーソロミューと出会った直後に、チャドはニューオーリンズに出向いた。まず、バーソロミューをニューオーリンズ担当のタレント・スカウトとして雇い、すぐに数人のシンガーと契約をむすんだ。そのひとりが、ラテン・クォーターのクラブでブギウギ・ピアノを弾きながら歌っていたアントワーン・“ファッツ”・ドミノだった。

Fats and Lou Chudd
中心にいるのがファッツ。そのうしろからのぞき込んでいるのがルー・チャド。右端はエディー・コクラン。

 コジモ・マターサは、前述のようにランパートの店で電気製品とレコードを売っていたが、その店の裏で小さなレコーディング・スタジオ、J&Mスタジオも経営していた。この時代には、J&Mはニューオーリンズで唯一の録音スタジオだった。だから、1949年12月に、デイヴ・バーソロミューがファッツ・ドミノを録音するときにもJ&Mを使った。バッキングはバーソロミュー・バンドがおこなった。
 アールにいわせれば、ファッツの曲は「みなシンプルで同じようなものばかりで、オレには単純すぎて面白くなかった」が、この49年12月のセッションで録音された"The Fat Man"は、R&Bチャートで2位を記録する大ヒットとなった。"The Fat Man"は、ニューオーリンズにはディクシーランド・ジャズ以外の音楽もあることを、そして、ファッツ・ドミノの存在を、アメリカ全土に知らしめる役割を果たすことになったのである。
 1949年から62年までのインペリアル在籍時に、ファッツはじつに58曲のR&Bチャート・ヒットを記録した。ポップ・チャートでヒットを飛ばすのは1955年まで待たなければならなかったが、それ以後、62年までに59曲のホット100ヒットを記録し、インペリアル・レコードの大黒柱の役割をまっとうした(チャドは63年に会社をリバティーに売却して引退する)。
 ニューオーリンズの音楽やブラック・ミュージックの歴史に関心があればともかくとして、もはやふつうの人はファッツの名前を知らないだろう。わずかに、"Blueberry Hill"や"Ain't That a Shame"がクラシックとして残ったが、それとて、ファッツの名と結びついているかどうかは心もとない。しかし、R&B、R&R、アメリカン・ポップの興隆において、彼がきわめて大きな役割を果たしたことはまちがいはない。そして、彼のヒット曲のおかげでニューオーリンズのサウンドが注目を浴びたことは、彼自身だけでなく、結果的にアメリカの音楽全体にも大きな影響をあたえることになる。

ビッグ・ビッグ・バックビート

 マックス・ウェインバーグの1981年のインタヴューで、アール・パーマーはつぎのようにいっている。

戦争直後にリズム&ブルースが生まれる。そして、あのバックビートってやつが、それまでより少し明瞭になってきたんだ。それ以前のミュージシャンは、ディクシーランドかビーバップをプレイしていた。そして、ディクシーランドでは、曲の始めから終わりまでずっと、強いアフタービート(バックビート)を使うことはなかった。「シャウト・コーラス」(最後のコーラス)に入ったときに、強いアフタービートを使い、あの大きなゴミ箱の蓋みたいなシンバルを叩くんだ。このときになってはじめて、アフタービートがちゃんと聞こえるのさ。

 アール自身はR&Bを好まなかったので、曲全体に一貫して強いバックビートを使うことも、彼の好みだったわけではない。しかし、昔も今もセッション・ワークというのは、ミュージシャンみずからの音楽的嗜好を満足させるためにおこなうわけではない。「雇われガンマン」として、時間単位で卓越した技術を切り売りする「仕事」なのである。そういうセッション・ワークにおいて、アールはニューオーリンズでもっとも勢いがあり、楽曲とプロデューサーの意図が理解できるドラマーとして、まだ世界のだれもが体験していなかったもの――「ザ・ビッグ・バックビート」を発明し、発展させていった。
 もちろん、バックビートはアールだけが発明したものではない。彼自身がいっているように、以前からドラマーが使うパターンのひとつとして存在していた。戦前の音楽を聴いてまず思うのは、ドラマーが落ち着かない、ということだ。ひとつの曲のなかでさまざまなパターンを使ってくるのである。もうひとつは、ドラムが聞こえない、ということだ。いろいろなパターンを使ううえに、録音が悪いので、ドラマーの存在はいたって希薄にしか感じられない。音像全体がぼやけているのだが、なかでもドラムの像は靄の向こうで揺らいでいるようにしか見えてこないのである。
 突き詰めていうと、アール・パーマーがニューオーリンズ時代におこなった最大の仕事は、シンプルで力強いバックビートによって、「ドラマーの存在を強烈にアピールした」ことだ。もちろん、はじめからそうだったわけではない。後年、ハリウッドのミュージシャンたちが「あのニューオーリンズ・ダウンビート」と呼んだものは、1947年から56年にかけて、アールにとっては23歳から32歳まで、ニューオーリンズでもっともホットなドラマーとしてすごした10年間に徐々に発展していったものだ。
 ファッツのデビュー・ヒットである"The Fat Man"(録音は49年暮、リリースは50年)を聴くと、初期R&Bの特徴である、「シャッフルでのコンスタントなバックビート」が、すでに使われていることがわかる。これは、インペリアルとの契約によって、バーソロミューが最初におこなった1949年11月のセッションで生まれた、トミー・リッジリーの"Boogie Woogie Mama"や、ジュウェル・キングの"3X7=21"では見られないし、この直後の50年1月に録音されたデイヴ・バーソロミュー自身の"That's How You Got Killed Before"でも同様である。
 ルー・チャドとファッツの成功に刺激され、さまざまなインディペンダント・レーベルがニューオーリンズの「資源」の獲得に乗り出した。そのなかでも、アールのキャリアに大きな影響をあたえたのは、スペシャルティとアラディンというLAの独立レーベルだ。
 アート・ループが大戦中の44年にLAで設立したスペシャルティ・レコードは、すでにパーシー・メイフィールド、ロイ・ミルトン、ジョー・リギンズなどで多くのヒットを記録し、ブラック・ミュージックをあつかう新興レーベルとして順調に発展していた。

Art Rupe in front of the door of Specialty officeアート・ループ スペシャルティのオフィスの前で

 チャドとは異なり、ループはスペシャルティ設立以来、一貫してみずからA&Rをおこなってきたし(のちにジョニー・ヴィンセント、バンプス・ブラックウェル、ソニー・ボノという、いずれもやがて独立して成功するプロデューサーたちを雇うことになるが)、独特の音楽観とヒット・レシピをもっていた。ファッツの成功に刺激されたループがニューオーリンズに出向き、発見したのがロイド・プライスだった。のちにアマチュアからプロまで無数のバンドがカヴァーしてクラシックとなる、ロイド・プライスの"Lawdy Miss Clawdy"(1952年3月)は、スペシャルティに3曲目のR&Bチャート・トッパーをもたらす。
 この曲のバッキングも基本的には「スタジオ・バンド」で、アールはこのミディアム・テンポのシャッフルの曲に、一貫したバックビートをつけている。スペシャルティは、アールにとって2軒目のLAの「得意先」となった。
 つぎに注目すべきは、さらにべつのLAのレーベル、アラディンが出した、シャーリー&リーの"I'm Gone"(1952年6月)で、ここではさらに強いバックビートが使われている。のちにアラディンは、アール・パーマーにA&Rのポジションを提供することもあって、このレーベルの登場自体にも大きな意味がある。
 バーソロミューがプロデュースした曲で、つぎにバックビートが目立つのは、トミー・リッジリーの"Looped"(1952年9月)だが、これはパーソネルがわからない。しかし、この当時のニューオーリンズのドラマーで、これほどパワフルな左手をもっているのはアールのほかには見あたらないので、まず彼のプレイと推定して大丈夫だろう。この時期のアールのプレイを見ていくと、ミディアムからスロウ気味の6/8拍子の曲では、強弱の差はあるにせよ、たいていバックビートを入れているのだが、この曲は速めのシャッフルでありながら、強いバックビートを使っているところが注目に値する。この前後のアールは、アップテンポになるとジャズ的なシンコペーションを使い、はっきりしたバックビートは叩かなくなることが多いからだ。
 また、この時期にコジモの録音スタイルも変わったのではないかと思われる。アールは、初期のJ&Bでの録音について、つぎのようにいっている。

ドラムにはマイクは当たっていなかった。あれはみな「リーク」だ。あの時代のリークには独特のものがある。リークのようには聞こえないんだ。自分の記憶が正しいとしたら、まずピアノのなかに1本、リー・アレンとレッド・タイラーはこのピアノ用マイクに向かってサックスを吹いた。そしてベースとギターが1本のマイクを共有し、最後の1本はシンガーが使った。ドラマーはマイクなしさ。

 「リーク」というのは、音の漏れのことだ。後年になると、多くのマイクとトラックが使えるようになり、各パートをバッフルで仕切って、リークを最小限に抑えるようになるが、まだ時代も時代だし、コジモのJ&Mはホーム・スタジオ同然で(じっさい、居間を転用したものだった)、設備も最新のものとはいえなかった。
 この場合、とくに問題になるのはミキシング・コンソールで、それが立てられるマイクの数を決めることになる。アールの記憶が正しければ、初期のJ&Mのコンソールは、3チャンネルのインプットしかなかったということだ(もっとも、たんにマイクを3本買う金しかなかった、という馬鹿馬鹿しいこともありえないとはいえないのだが!)。40年代終わりから60年代なかばにかけては、録音技術が飛躍的に発展した時代で、現在では想像しにくくなってしまったが、技術の変化が音楽自体に直接的な影響をあたえた、音楽史上きわめて特異な時期だった。
 たしかに、アールの証言を裏づけるように、49年から50年ぐらいにかけては、ドラムはほとんど聞こえないし、聞こえてくる音も像がぼやけている。しだいにドラムの音像は明瞭になってくるのだが、ドラムにマイクが当てられるようになったのか、それとも、コジモの録音テクニックが精緻になって、リークの拾い方がうまくなったのかは判断できない。
 しかし、この"Looped"までくると、マイクが当たっているとしか考えられない。J&Mもそれなりに収益が増えて設備が更新されたのではないだろうか。どうであれ、これほど明瞭にドラムの音が聞こえるようになると、もはや音楽の質そのものがそれまでとは異なって感じられる。レコーディッド・ミュージックにおいては、なによりもこの「質感」が重要なのである。

Fats and Dave in the control booth
J&Mスタジオ テープ・マシンをはさんでファッツ(左)とバーソロミュー

 スペシャルティのアーティスト、ロイ・ミルトンはドラマーでもあった。したがって、彼のヴォーカル・マイクはスネア・ドラムのすぐ近くにセットされていた(マルチトラック録音によって、トラックとヴォーカルの録音が分離されるのは未来の話だ)。これがミルトンの曲にビッグ・ビートをあたえることになった、とビリー・ヴェラはいっている。そういう事情を考えると、この時期になって、LAとの競争のために、コジモがドラムにマイクを当てようと考えても、べつに不思議はない。
 時代はビッグ・ビートに向かっていた。意識していたかどうかはなんともいえないが、そのなかで、アール・パーマーは重い左手のハード・ヒットによって、時代の最先端に立ったのである。



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