Track 2


ア・ワッバッパルー・
マッパラッバン・ブーム!

―The Rockin' Fifties―




Sleeve of Here's Little Richard




ロックンロール誕生 1955-56

 まず、ささやかなリストをご覧いただきたい。

ロックンロール・ビート・タイムライン
Rec. DateArtistTitleRec. Loc.
1955/05/21Chuck BerryMaybelleneChicago
1955/09/14Little RichardTutti FruttiNew Orleans
1955/11/29同上True Fine MamaHollywood
1956/01/10Elvis PresleyHeartbreak HotelNashville
1956/02/07Little RichardLong Tall SallyNew Orleans
同上同上Slippin' and Slidin'同上
同上同上Miss Ann同上
1956/04/11Elvis PresleyI Want You, I Need You, I Love YouNashville
1956/04/16Chuck BerryBrown Eyed Handsome ManChicago
同上同上Too Much Monkey Business同上
同上同上Roll Over Beethoven同上
1956/05/09Little RichardRip It UpNew Orleans
同上同上Ready Teddy同上
1956/07/02Elvis PresleyHound DogNew York
同上同上Don't Be Cruel同上
1956/07/30Little RichardHeeby-JeebiesNew Orleans
同上同上Lucille同上
1956/07/31同上All Around the World同上
1956/08/24Elvis PresleyLove Me TenderHollywood
1956/09/02同上Too Much同上
1956/09/06Little RichardShe's Got ItHollywood
1956/10/15同上Jenny JennyNew Orleans
同上同上Good Golly Miss Molly同上
1956/10/16同上Girl Can't Help It同上
同上同上Send Me Some Lovin'同上
同上同上Baby Face同上
Note: ポップ・チャートまたはR&Bチャート・ヒットのみを選んだ。ポップ・チャートでもヒットした場合はイタリックで表記。録音日付の順なので、じっさいのリリースは大きくズレる場合がある。とくにリトル・リチャードの"Miss Ann"と"True Fine Mama"のチャートインは57年。なお、参考のために、同時期のファッツのヒット曲を別表にまとめておく。

 いやはや、とんでもない時代だった。わずか1年半のあいだに、もっとも重要なロック・クラシックスが、集中豪雨のようにヒット・チャートを襲ったことになる。
 この一覧の順序にしたがって、改めて聴き直してみた。チャック・ベリーの"Maybellene"は、ギターのサウンドに新しさが感じられるが、ヴォーカル自体は穏当なもので、時代を動かす強い力は感じられない。彼の楽曲に、ティーネイジャーの気分をうまくとらえた、ウィットに富んだ歌詞が登場するのはもう少しあとのことで、この段階ではギターの魅力のみが印象に残る。
 それに対して、リチャードの"Tutti Frutti"はいま聴いても「とんがって」いる。当時、ラジオを聴いていたら、「いったいこれはなんだ!?」と仰天したにちがいない。冒頭の1小節だけですでに、聴く者に対し、これが好きか嫌いか、ただちに態度を決めろ、と脅しあげる力をもっているのだ。
 ここにあげていないエルヴィスのサン時代の録音は、歴史的に見て重要だし、なるほど、なにかをもっている歌い手だとは思うものの、「これで時代が変わった」という革新性は感じられないし、ドラムレスなのでサウンドは弱い。彼が「現象として」アメリカを揺さぶるのは、やはりRCAに移籍してから、"Heartbreak Hotel"の大ヒットでのことになる。
 "Tutti Frutti"のあとで聴くと、"Heartbreak Hotel"でさえ、ひょっとしたら両親も許してくれるかもしれない、よい子の音楽に思えてくる。もちろん、じっさいには親たちはエルヴィスを拒否したのだが、いまになって音楽だけを純粋に聴くと、シンガーとしてのうまさが目立ち、「許容範囲内」の荒々しさに思えてくるのである。しかし、これはエルヴィスにとって有利に働いたはずだ。ほんとうに「逸脱」したものは、チャット・トッパーになることはできない。チャート・トッパーになるには、きわめて多数の人間に受容されなければいけないのである。"Tutti Frutti"のあとならば、"Hearbreak Hotel"は「ほどよく過激」な曲に聞こえただろう。
 エルヴィスは、ストレート・ロッカーのあいだに、腰を振らずに歌えるバラッドをはさんでいる。すでに56年8月という早い時点で、"Love Me Tender"が録音され、シングルとしてリリースされていること、そしてハリウッド録音であることは注目に値する。この曲は、ビートルズでいえば"Yesterday"の役割を果たしたにちがいない。エルヴィスにはトム・パーカーという「大人」がついていた。彼は、いずれエルヴィスをアメリカの国民的シンガーにする、という大望をもっていたはずだ。
 それに対して、リチャードはまるで暴れ馬だ。時間の流れを追って順序よく登場する「つぎの時代を担うもの」というのはあるが、なかには文脈もへったくれもなく、「勝手に」出現するものがある。リトル・リチャードはまさにそれだ。もっとも、エルヴィスが、マーロン・ブランド、ジェイムズ・ディーンの系譜につらなる大衆(ただし、このとき出現していた「きわめて若い大衆」だが)のヒーローであったように、リチャードはそれとセットになった「大衆アンチ・ヒーロー」としての資質はもっているので、彼もまた、揺れる50年代の産物だった。
 注目すべきは、リチャードと"Tutti Frutti"をまったく異質で理解不能なものとせず、それどころかR&Bチャートの枠組すら超えて、ポップ・チャートの17位まで押し上げる支持層――レコードを買ったり、一家のとはちがう自分専用のラジオをもてるだけの金銭的余裕のある若年層――が出現していたことに、時代の変化があらわれていることだ(しかし、この時代にはよくあったことだが、すぐに白人のパット・ブーンのカヴァー盤に追い越される。もっとも、ブーンの「殺菌消毒済みカヴァー盤」など、いまとなってはお笑いネタ以外のなにものでもない。決着はついたのだ[*注1])。

Little Richard in the studio
ザ・クレイジー・シャウター スタジオのリトル・リチャード

 この時期のリトル・リチャードはスペシャルティのアーティストで、バンプス・ブラックウェルのプロデュースのもと、「スタジオ・バンド」をバックに、ニューオーリンズのJ&Mで録音していた。
 いかにもスタジオのプロフェッショナルらしく、アール・パーマーは自分の仕事にほとんど幻想をもっていない。ファッツ・ドミノにも、リトル・リチャードにもべつに関心はわかなかった、といっている。しかし、彼が果たした役割は決定的だった。
 それは、皮肉なことに、アールが叩かなかった、56年9月6日にハリウッドで録音された"She's Got It"を聴けば、たちまちにして理解できる。バックビートが聞こえないのだ。ドラマーは「バックビートのようなもの」を叩いている。しかし、われわれの耳には届いてこない。これでは、いくらリチャードがシャウトしても、空回りするだけである。バックビートとは、たんなる2、4拍目のビートではない、2、4拍目の「デカい」ビート、強いアクセントでなければいけないのだ。
 エルヴィスのバンドは、エルヴィスに呼応するテンションをもっていたが、いかんせんドラムのフォンタナのプレイ、とくにフィルインが不安定で、当時はこれでよかったのだろうと思うが、いまになって聴くと、もう少しきちんとタイムをキープしてくれればリラックスして楽しめるのに、と思う。勢いあまって、けつまずいたという感じのプレイなのだ。
 チャック・ベリーのバンドは、エルヴィスのバンドとは異なって安定しているが、逆に、(録音のせいもあって)エネルギーがなく、はじめから印象が薄い(細かく聴けば、ジョニー・ジョンソンのピアノには光るプレイがあるが)。いまそう感じるだけでなく、当時のリスナーも強い印象は受けなかったのではないだろうか。
 それに対して、リチャードの盤は、彼自身が圧倒的にパワフルなだけでなく、バンドもプロでありながら(もっとも、リー・アレンはジャズの素養がなく、シンプルなプレイしかできなかったらしいが、それを補って充分なエネルギーがある)、リチャードに負けず劣らずパワフルである。これが、いま彼の盤を聴いても、素直にそのエネルギーを楽しめる最大の理由だろう。すぐれたプロの仕事というのは、同時代のリスナーに強い印象あたえるだけでなく、長い年月の経過にも耐えられる力を音楽にあたえるものなのである。
 (ここでいっているのは、いまの耳で聴いて「盤として」総体的にどう聞こえるかということだ。エルヴィスが「時代のアイコン」であったことは関係ないし、彼の視覚的なカリズマ性も、シンガーとしての個人的な好み――エルヴィスのほうがはるかに好ましい――も無視した。)

8ビートの生まれた日

 "Tutti Frutti"のヒットを飛ばしたリチャードは、56年1月7日、バンプスとともにJ&Mにもどり、さらなるクラシック、"Long Tall Sally""Slippin' and Slidin'"を録音した(この三日後にエルヴィスが"Heartbreak Hotel"を録音する。まさに時代が動いていたのだ)。ドラムはもちろんアール、ピアノは前回のヒューイ・スミスにかわってリチャード自身、あとはフランク・フィールズ(b)、エドガー・ブランチャード(g)、リー・アレン(ts)、アルヴィン・“レッド”・タイラー(bs)というメンバーだ。この曲以降、これがリチャードのニューオーリンズ・セッションのレギュラーとなる。
 リズム・トラックに関するかぎり、ほんとうの革命への胎動は、"Tutti Frutti"ではなく、この"Long Tall Sally"および"Slippin' and Slidin'"のセッションで起きた。
 前回は、さすがの「スタジオ・バンド」も、リチャードの投げ込む見たこともない剛速球に驚いて、とりあえずスウィング・スピードを速くしてみた、という印象だった。しかし、今回ははじめからリチャードのスピードを理解したうえで、さあ、どんな球でも投げ込んでこい、という余裕をもってセッションに臨んでいるのが感じられる。アールの強いビートだけでなく、リー・アレンのテナー・サックスも、つねにリチャードと同じテンションを維持している。

オレが、やがて「ロックンロール・ビート」といわれるようになるものをプレイしはじめた唯一の理由は、あのジャジャジャジャっていう、リチャードの右手に合わせたかったからだ。それまでオレがプレイしたものはほとんどがシャッフル、スロウな三連[8分の6という意味だろう]だった。初期のファッツ・ドミノの曲はシャッフルだった。スマイリー・ルイスも同じだ。
だが、リトル・リチャードは、シャッフルからあのストレート8フィールへと移行した。リチャードなのか、チャック・ベリーなのか、ああいう8ビートをだれが最初にはじめたのかは知らない。たとえチャック・ベリーがストレート8でギターを弾いても、彼のバンドは依然としてシャッフルでプレイしていた。だが、リチャードがあの調子で10本の指をすべて使ってピアノを叩けば、あれに逆らってはきちんとプレイすることができない。"Tutti Frutti"を聴けば、オレがシャッフルでプレイしているのがわかるだろう。いまあれを聴くと、ロック・ビートでやるべきだったということがはっきりとわかる。
リチャードの音楽はとてつもなくエキサイティングだった。いや、音楽の質のことをいっているわけではない。あれは質の高い音楽などではなかった。コードもへったくれもない、ただのブルースだ。"Slippin' and Slidin'"は"Good Golly Miss Molly"に似ているし、この2曲はともに"Lucille"に似ている。こうした曲がなぜエキサイティングなのか。それはリチャード自身がエキサイティングだからだ。

 ここでは、アールはいつ「ストレート8フィール」のプレイに移行したかを明らかにしていない。たしかに、"Tutti Frutti"ではまだ通常のシャッフルだった。しかし、つぎの56年2月のセッションで録音された"Slippin' and Slidin'"になると、アールのビートのニュアンスが微妙に変わる。彼がしばしばいっている、「ニューオーリンズ独特のシャッフルとストレート8の中間的なビート」のように思える。ここまでくれば、8ビートまではあと一歩だ。
 そして、1956年7月30日、"Lucille"で革命はなった。この曲では、アールのハイハットははっきりと8分を刻んでいる。フィールズのベースとブランチャードのギターも、1オクターヴずらして同じ8分のリックを弾いている。ついに、彼らはリトル・リチャードが体内にもっていた「ストレート8フィール」と一体になった。8ビートが誕生したのである。

「仕事」としての音楽、楽しむための音楽

 しかし、アール自身は「新しい歴史を切り開いている」という自覚はまったくもっていなかった。

あれはただの仕事だった。終わったらみんなでどこかへいって一杯やるのを楽しみにしていた。いや、スタジオにいくのは楽しみだった。たった6時間働いただけで、一週間ギグをしたのと同じ金になるんだからな。だけど、ああいう曲があれほどの人気を得ていたことは知らなかった。オレにとって、ロックンロールはどんな意味があったかだって? オレはジャズの世界に生きていた。リトル・リチャードにもファッツ・ドミノにも興味はなかった。これは理解しにくいだろうね。きみ[インタヴュアー]はそういう[ロックンロール]世代に属している。でも、オレはちがう。オレたちは、自分の音楽観からすれば重要な意味をもたないものをプレイしていたんだ。

 ニューオーリンズR&Bの歴史においては、プロフェッサー・ロングヘアは伝説的な存在だ。ファッツのようなポップ・スターより評価が高いかもしれない。しかし、アールから見れば、“フェス”も同じようなものだった。

オレは“フェス”が特別な存在だと思ったことなどない。客っていうのは、興奮すれば間違った音を山ほど聞き逃すものでね。彼は音楽的基礎がまったくないピアノ・プレイヤーで、人間としても非常に知的とはいえなかった。

 アールのように音楽的教養のあるプレイヤーから見れば、こうしたシンガーたちはたんなるエンターテイナーにすぎず、音楽的にはくだらないものにしか思えなかったのだ。
 ビーバッパーであり、アレンジの教育も受けた(じっさい、アレンジャーとしてもヒット曲をもっている)アールから見れば、三つしかコードを使わない音楽など、子どもの遊びに等しい。ブルース・ファンは、ポップと異なってブルースは「シリアスな」音楽だと思いたいらしいが、アールから見れば、五十歩百歩だった。

オレたちはTボーン・ウォーカーともプレイした。いい奴だったが、いっしょにプレイしても面白くはなかった。ブルースしかやらないんだからな。

 ニューオーリンズのクラブ「デュウ・ドロップ・イン」では、仕事を終えたアールたちがやってくるのを多くの人間が待っていた。ギター・スリムも、アールのバンドを待ちかまえていた連中のひとりだった。

彼がよくやったスタントがある。長いコードを使って、クラブから歩道に飛び出してギターを弾きつづけるんだ。あいつが外で弾いているあいだに、オレたちはコードを引っこ抜いて、ビーバップをプレイしはじめるわけだ。

 もっとも、金さえ払ってくれれば、ブルースだって差別はしない。アールはスタジオではギター・スリムのバッキングをしている。しかし、深夜のジャムは仕事ではない。仲間が集まって、いわば、碁の複雑玄妙さを楽しんでいるときに、五目並べしかできない子どもは邪魔だ、ということにすぎないのである。
 オーネット・コールマンも、「正しいコード・チェンジを知っていたか知らなかったのか、それはわからないが、いずれにしてもコード・チェンジを無視した」し、ひどいプレイしかしないので嫌われた。

Earl and Red
「よし、いまだ、コードを抜いちまえ!」 深夜のレギュラーたち。ドラム・ストゥールにはアール、左端はアルヴィン・"レッド"・タイラー

 嫌われたのはブルースマンや、アヴァンギャルド・ジャズ・プレイヤーだけではない。

オレたちはレイ・チャールズも避けた。一時期、レイ、ビッグ・ジョー・ターナー、アル・ヒブラーの三人がそろってデュウ・ドロップ・インにたむろっていて、オレたちが来るのを待ちかまえていたことがあった。仕事を終えてクラブに入っていくと、レイがオレたちとジャムろうと待ちかまえているわけだ。たしかに、いいシンガーだし、ピアノの腕も素晴らしいと思った。ただ、困ったことに、レイはナット・コールのイミテーションばかりやりたがったんだ。オレたちのほうはそれまでずっと、仕事で一晩中ナット・コールとプレイしていたんだからな! 『ドロップ』にいったら、いつもビーバップをやろうという気分になっていたものさ。

 リトル・リチャードのセッションにはじめて参加したとき、アールは三十歳になっていた。まだ円熟という時期ではない。かといって、駆け出しのヒヨコでもない。ドラマーとしても、人間としても、血気盛んで、ある分野でトップに上り詰めたプロの自信にあふれていた時期だ。単純な音楽に対する愛も尊敬ももってはいなかったが、リチャードについては、さすがのアールも多少の注目をした。

オレがはじめて「ページがめくれた」と感じたのは、リトル・リチャードのときだ。あんなものはそのときまで聴いたことがなかった。彼がピアノで「ジャ、ジャ、ジャ、ジャ」とやりはじめた瞬間、「この男はワイルドだぜ」と思ったね。

 「ページがめくれた」という言いまわしには、アールの気分がかなり正確にあらわれているように思える。ここから読みとれるのは、自分が主体的におこなったことではなく、たまたま歴史が転回する瞬間に居合わせた、という第三者的な感覚である。あのソリッドなバックビートを叩き出し、アメリカ音楽の歴史を変えたという自覚は、後年にいたって生まれたのだろう。しかし、それは他人がそう評するからであって、主観的には、プロとして、その場その場で必要とされることをしたにすぎない、と感じていたにちがいない。
 こうした、第三者の見方と、現場で日々仕事をしていたプロの見方のギャップというのは、ポップ・ミュージックの歴史につねにつきまとうものだ。今後も、通奏低音のように何度も顔を出すことだろう。
 このようなアールの「引いた」見方、仕事でプレイする音楽の中身に対して、透明なガラスをはさんで見るような視線は、ある種、祖型的なもので、スタジオ・プレイヤーに共通して見られる特徴である。
 また、ブルースに代表されるプリミティヴな音楽に対する無関心と、それと表裏をなす、複雑な和声と洗練されたオーケストレーションに対する愛着も、彼らの共有するものだった。この点については、もう一度検討する機会があるだろう。

Say Goodbye to New Orleans

 アール自身は自覚していなかっただろうが、第三者の目から見ると、一連のリチャードの楽曲で、彼はひとつの到達点を示した。もちろん、時代が変われば要求されることも変わり、さらに高いレベルへと向かう。現在の感覚で振り返れば、この当時のアールのプレイは、つねに満足のいくものとはかぎらない。彼自身の後年のプレイとくらべても、当然ながら見劣りがする。
 しかし、想像力をもってこの時代に身をおいてみれば、彼がこの時点でできるベストのプレイをおこなったこと、そして、それが多くの音楽人に感銘をあたえたことはリアルに感じ取ることができる。ニューオーリンズには、時代のムードを体現する、とてつもない力量をもつドラマーがいることが、耳の聞こえる人間にはハッキリとわかったにちがいない。
 しかし、あるピークに達したということは、同時に、危機を迎えたことを意味する。小さな地方都市のお山の大将として、できることはすべて実現してしまったのである。それだけではない、ニューオーリンズというのは、ある意味で居心地の悪い場所でもあった。

ニューオーリンズの人間はクレイジーだ。自分の土地の音楽にほとんど関心をもっていない。当たり前のものだと思っているんだ。ニューオーリンズの人間はスターに殺到したりはしない。そういうことはカリフォルニアの連中のやることさ。

 ニューオーリンズで最高のドラマーであっても、そして、その左手のハード・ヒットでアメリカ中を揺さぶっても、ミュージシャン仲間以外にはどうでもよいことだったのである。
 音楽とはまったく無関係な出来事もあった。アールはニューヨークからやってきた白人女性に恋したのである。現代とはまったく事情が異なる。ルイジアナ州は第2次大戦後、黒人を抑圧する法律をつぎつぎと成立させた。1950年に定められた州法は、「“コーケイジアン”または白人と、有色人種または黒人とのあいだの“常習的同棲”」を禁じていたのだ。
 よしんば法が禁じなくても、リンチの危険もあった。アールはいう。「刑務所だけはゴメンだった。出てこられないかもしれないんだ。いまでは想像しにくいだろうが、連中はその気になれば囚人を殺して、自殺したと言い張ることができた。文句をいう人間なんかいるか? 捜査する人間なんかいるか?」
 ニューオーリンズにさよならをいう理由はたくさんあった。あらゆることが、この「ビッグ・オールド・タウン」を去って、人生のつぎのステージに上がることをアールに迫っていた。

ニューオーリンズには未来がないのはわかっていた。オレはニューオーリンズでいちばんのドラマーだったし、最高の仕事を手に入れていた。でも、それがなんだっていうんだ? LAの連中は映画のスコアやテレビの音楽などで、たんまり儲けていたんだ。

 アールは子どものころからずっと、カリフォルニアで暮らしたいと思っていた。どうやら、その夢を実現する時がやってきたらしい。1957年、買ったばかりのマーキュリーに乗って、アールはニューオーリンズをあとにした。




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