Track 3


一瞬の光芒

―The First and the Final Streak―



Hollywood, CA, 1915



アヴォカドとスカンクと柊の林

 1957年2月、アール・パーマーが長旅の末にロサンジェルスにたどり着いたとき、ハリウッドはひとつの死を迎えていた。
 そのちょうど半世紀前の1907年、ウィリアム・シーリグはサンタモニカで映画の撮影をおこない、2年後の1909年、LAにカリフォルニアで最初の撮影所を建設した。すぐに、このときはまだバイオグラフ社で俳優として働いていたD.W.グリフィスが、ダウンタウンLAにほど近い場所にスタジオを開き(そして、『国民の創世』によって大成功し、『イントレランス』によって破産する)、以後、マジェスティック、IMP、ヴァイタグラフ、ルービンなどなどと、追随するスタジオが引きも切らずにあらわれた。
 ダウンタウンLAの北西にある、アヴォカド、パイナプル、レモン、オレンジ、胡椒といった木々やジェラニウムが自生し(これでこの土地の気候がわかる)、スカンクやウサギが跳ねまわる田園地帯を「ハリウッド」と命名したのは、イリノイからやってきた入植者の女性だったと伝えられている。故郷のヒイラギ(holly)の林にちなんでのことだという。もちろん、アヴォカドが自生するような土地だから、ヒイラギの林などなかったのだが。
 ハリウッドに最初の撮影所を建てたのは、ニューヨークのスターテン島に本拠をおくネスター映画だった。1910年のことである。大手撮影所のなかで最後にカリフォルニアに引っ越したのは、カール・レムリのユニヴァーサルで、ハリウッド北方の山向こうにスタジオを建設し、ユニヴァーサル・シティと命名した。

Carl Lemmle(左)ユニヴァーサルの創設者カール・レムリ
(右)ユニヴァーサル・シティ
Universal City

 のちにMGM(Metro-Goldwyn-Mayer)のボスとなるルイス・B・メイヤーが、1918年にボストンからハリウッドにやってきたとき、LA一帯にはすでに70を超える撮影所ができていた。そして、世界全体で製作される映画のじつに80パーセントがここから送り出されていたのである。
 20年代、30年代と、映画界の発展とともに、ハリウッドという土地も順調に発展していった(もっとも、大恐慌のおかげで映画産業は瀕死の重傷を負ったが、ローズヴェルトのニューディール政策のおかげで窮地を脱した)。ハリウッド・ブールヴァードの泥道は舗装され、小さな家が建ち並んで、町らしい体裁を整えた。すぐにその分譲家屋も郊外へと追い出され、それに替わって、映画や放送などの娯楽産業を中核としたオフィス・ビルや映画館が建ちはじめた(20世紀初頭のハリウッドは保守的な土地で、まだ独立した自治体だった1910年、一館もできないうちに、先まわりして映画館の建設を禁じたが、その年のうちに、そんなことには頓着しないロサンジェルス市に吸収されてしまった)。
 草創期のハリウッドについて、バド・シュルバーグは『ハリウッド・メモワール』のなかで、つぎのように書いている。

オレンジの花の香りが漂い、胡椒の木々にかこまれた、絵のように美しい田舎道だったサンセット・ブールヴァードとヴァイン・ストリートの交差する地点に、デミルは古い納屋を見つけ、週に百ドルで借りた。俳優たちは一マイル離れたところにある傾きそうな下宿屋から、中古トラックで仕事場まで運ばれた。

 もちろん、デミルとは、『十誡』(1923)『大平原』(1939)『サムソンとデリラ』(1949)などで知られるセシル・B・デミルのことだ(『十誡』は56年にデミル自身がリメイクした。こちらの邦題は『十戒』。文部省のせいで文字を変えなければならなかった!)。
 「サンセット&ヴァイン」「ハリウッド&ヴァイン」といった通称は、交叉点を中心としたやや広い区域を指す。京都のたとえば「四条河原町」が、四条と河原町の交叉点ではなく、その一郭全体を指すことを思い浮かべていただきたい。ハリウッド娯楽産業は、このサンセット&ヴァインやハリウッド&ヴァインを中心に発展していくことになる。
 ハリウッドには広大な果樹園があったので、ヴァイン・ストリートは葡萄農園の跡地かもしれない。後年、ハリウッド音楽界の申し子ともいうべきランディー・ニューマンが、"Vine Street"という曲を書くが、この歌の語り手であるミュージシャンが住んでいた場所は、まさにここのことだ。ニューマンがこの曲を書いたとき、すでにサンセット&ヴァインには、レコード盤を重ねたデザインのキャピトル・タワーが建っていた。
 サンセット・ブールヴァードは東西に走る大通りなので、夕陽が美しかったことからその名がついたのかもしれない。映画やテレビや小説などにしばしば登場する場所だ。チャンドラーのヒーロー、フィリップ・マーロウはここに事務所をかまえていたし、もちろん、ウィリアム・ホールデンが売れない脚本家に扮した、ニューロティック・スリラーの先駆ともいうべき『サンセット大通り』(デミルも彼自身の役で出演した)のタイトルが示す場所もここだ。オールド・タイマーには懐かしいドラマ『サンセット77』の舞台「サンセット・ストリップ」も、サンセット・ブールヴァードの一郭(つまりstrip)を指す。

Hollywood Hills and VineStreet, 1925
1925年のヴァイン・ストリート 正面の山はハリウッド・ヒルズ。山上右手にHOLLYWOODLANDのサインがあり、左側には「H」の一文字だけができている。これは不動産業者(マック・セネット!)の広告で、この時代にはまさに純粋な「看板」だったことになる。「狂乱の1920年代」は現代的な広告手法の出発点だった。

 大恐慌や戦争はあったものの、1920年代から40年代前半にかけては、ハリウッドにとってはよい時代だった。だが、戦争が終わったとき、なにかが変わった。あるいはその少し前、ローズヴェルトが没して、副大統領だったトルーマンが昇格したときかもしれない。
 勝利の直後は、よい時代、だれもがおおいに稼ぎ、おおいに浪費する時代がくるという期待があった。たしかに、1946年は映画界にとって、すくなくとも興行収入の面では素晴らしい年だった。この年のオスカーが、作品賞、監督賞ともにウィリアム・ワイラーの『我等の生涯の最良の年』にあたえられたのは、じつに適切であり、同時にとほうもないアイロニーでもあった。
 後年の目から見れば明らかだが、いうまでもなく、最上級を使ったらそれでおしまいなのだ。ピークの向こうには、終わりがないのかと思うほど長い下り坂が待っていた――。

ユダヤ系移民対エスタブリッシュメント

 ある意味で、ハリウッドは「反アメリカ的」な場所だ。アイロニーやパラドクスではない。ワシントンはしばしばハリウッドに敵対している。そのたびにハリウッドは必死で防御し、敵意をやわらげるためのポーズをとってきた。しかし、裁判所はたいてい、連邦政府に軍配をあげた。
 なにしろ、ハリウッドは「アメリカ」からの逃亡者の町だ。
 映画も「発明品」であり、撮影・映写機構の特許を取得した人間がいた。トーマス・アルヴァ・エディソンである。もちろん、大きな利益をもたらす画期的な発明にはつきもののことだが、べつの主張をする人間たちもいた。バイオグラフ社とアメリカン・ミュートグラフ社である。両社はエディソンに対して訴訟を起こし、結局、エディソンと両社は持株会社「映画特許会社」(Motion Picture Patent Company。「特許会社」と略す)を設立して、ここに特許権を集約することで合意し、訴訟は取り下げられた。
 特許会社はさらに、イーストマン・コダック社とフィルム供給の独占契約を結び、国内の他のフィルム会社を市場から締め出すという間接的な方法と、特許権侵害訴訟という直接的な方法を使って、映画製作者、興行主、配給会社に対して、特許料を支払うように圧力をかけた。
 特許会社と敵対したのは、主として興行の世界からのし上がってきたユダヤ系の移民たちだった。こうした映画業者は、特許会社に対抗するためにさまざまな手を打った。たとえばカール・レムリは、特許会社の特許権がおよばないヨーロッパの映画を輸入して興行主に配給したし(サイレントの時代だから、輸入コストはほとんどかからなかった)、各製作会社や現像所はイーストマン・コダックの独占権がおよばないヨーロッパからの輸入生フィルムに群がった。
 また、レムリは特許会社の立ち入り検査に備えてダミーのカメラを用意し、特許の対象となる「本物の」カメラは巧妙に隠したりした。ワスプが大部分を占める特許会社と、エスニックが占める独立系との戦いは、たんなる経済戦争ではなく、文化、宗教、哲学の戦いでもあった。
 独立系にユダヤ人が集まったのには、はっきりした理由がある。娯楽産業は、ワスプが隊列を組んで押さえている「堅気の」業界とは異なり、移民の参入が容易だったのである。また、移民たちは、ひとたび娯楽産業に足場を築くと、家族、親戚縁者、友人を雇い入れた。身内意識の強いユダヤ系移民たちがアメリカ娯楽産業の基礎をつくり、このような誕生の経緯は、ある意味で後年のこの業界の性質を決定することになる。

Adolph Zukor and Jesse Lasky
帝国の設計 撮影所建設現場にて、パラマウントのふたりの創設者、アドルフ・“キラー”・ズーカー(左)とジェシー・ラスキー

 最終的にロサンジェルスへの大移動が起きた理由はひとつではない。もちろん、よくいわれるように、南カリフォルニアは雨が少なく、長い日照時間が得られるということも大きかっただろう。しかし、彼らがユダヤ人だったことも大きな理由だった。カリフォルニアは、まだ東部エスタブリッシュメントの力があまりおよんでいず、東部よりはるかに自由な雰囲気があったのである(これもまた、後年のハリウッド音楽界の性質を決定する)。そして、カリフォルニアまで逃げれば、特許会社の監視の目もいきとどかないはずだった。
 彼らの「新・出エジプト記」は成功した(東部脱出の先頭を切ったデミルが『十誡』をつくったのは、メタファー以外のなにものでもない。自分をモーゼになぞらえた、とまではいわないが!)。特許会社は自壊現象を起こして、急速に力を失っていった。独立系映画業者は、カリフォルニアの地でも離合集散を繰り返した結果、「ビッグ5」(パラマウント、MGM、ワーナー・ブラザーズ、20世紀フォックス、RKO。いずれも自前の劇場チェーンをもっていた)と、それに準ずる「リトル3」(コロンビア、ユニヴァーサル、ユナイティッド・アーティスツ。30年代に劇場チェーンを失った)がメイジャーとしての地位を確立した。その過程で確固たる「スタジオ・システム」も組み上げられて、アメリカ全体の製作本数の大多数がハリウッドでつくられるようになったのである。

反共、反トラスト、反ユダヤ、そして「非米」

 特許会社は失敗したが、東部エスタブリッシュメントの攻撃はつづいた。ハリウッド映画界に対する攻撃は何度もあった。そのうちのどれが命取りになったとも断言できないが、特筆すべきことがらはある。
 第一は、「下院非米活動委員会」による公聴会である。ルー・チャドがインペリアル・レコードを設立し、レス・ポールが"Lover"を録音し、アール・パーマーがデイヴ・バーソロミュー・バンドに入ったその1947年に、労働組合の活動を大幅に制限するタフト=ハートリー法が下院を通過した結果、アメリカ各地でストライキが頻発して、おりからの反ソ感情の背景もあり、こうした労働運動は共産主義の陰謀ととらえられることになった。
 同じ年の秋に下院非米活動委員会(HUAC=House Un-American Activities Committee。Anti-Americanではなく、Un-Americanなので、「反米」ではなく「非米」と訳される)は、ハリウッドの映画人をワシントンに召還して、公聴会を開いた(委員のなかにはこのときは下院議員だったリチャード・ニクソンが、証言者のなかには俳優ギルドの代表としてロナルド・リーガン、のちのレーガンがいた)。

Harry Warner of Warner Brothers
終わりの始まり 証言台に立つワーナー・ブラザーズのハリー・ワーナー

 HUACは戦時中にナチス同調者の破壊活動を念頭に設立されたが、戦後になって、目標を共産主義者に切り替えた。この映画人の公聴会は政治ショウであり、HUACの存続を主張する一大デモンストレーションだった(ナチス政権の成立とともに、ヨーロッパのユダヤ人音楽家、演劇人、作家らがハリウッドのユダヤ人コミュニティーを頼って亡命してくるようになり、このころのハリウッドが、ヨーロッパの革新主義者であふれかえっていたことも原因のひとつとされる[*注1])。これは50年代の「マッカーシーイズム」「赤狩り」の先駆で、ハリウッドのスターや大立て者を呼び物にした「赤狩りショウ」のグランド・オープニングだったのである。
 HUACが求めていたのは生け贄だった。ハリウッドの場合は、知識人の多い脚本家ギルドと監督ギルドが多くの犠牲者を出した。良心にしたがって証言を拒否し、議会侮辱罪で下獄した(1950年に有罪確定)「ハリウッド・テン」と呼ばれた10人だけのことではない。ヨーロッパへ避難したり、キャリアを絶たれた映画人も続出して、きたるべき時代の中核をなすはずだった若く有能な人材の多くが失われた。ハリウッドに残ることができたひとびとですら、「仲間を売った」裏切り者の烙印を押されたのである。

John Howard Lawson
良心とプライドの問題 証言を拒否して公聴会を退席する「ハリウッド・テン」のひとり、脚本家ジョン・ハワード・ローソン

 もうひとつは司法省による反トラスト法訴訟である。前述のように、ハリウッドのメイジャー・スタジオは、興行の世界から育ってきた。なによりも、多くの劇場を傘下に収めることが、レースに勝つ近道だったのである。ビッグ5は自前の劇場チェーンをもっていた。アメリカの全映画館に対するビッグ5支配下の劇場の比率が2割を超えることはなかったが、みずからのロードショウ館に対する配給の決定権をもつことで、独立系興行主たちに対する価格と配給のコントロールを確立したのである。
 司法省は、このような製作と配給と興行の「垂直統合」はトラストであり、法に反するとした。戦争前の1938年からつづいたこの裁判は、HUACの公聴会の翌年である1948年(このタイミングも悪かった)の最高裁判決で、10年目にして決着を見た。ビッグ5は劇場チェーンを手放さなければならなくなったのである。つまり、メイジャーは大きな収入源と市場に対するコントロールを失ったということだ。メイジャーがこのダメージから完全に回復する日はこないだろう。

『出ハリウッド記』第1クール

 50年代に入ると、弱り目に祟り目のハリウッドを、もうひとつの災厄、最大かどうかはべつとして、もっとも長くつづく災厄が襲った。テレビの急速な普及である。
 テレビの商業放送はすでに1941年からはじまっていたが、一般家庭に入り込んで、社会に大きな影響をあたえはじめるのは、50年代に入ってからのことだ。1950年には普及率が9パーセントに到達し(設置台数では4000万弱)、54年にははじめて半数を超えて55パーセント強と、飛躍的な成長をとげる。テレビは50年代前半にメディアとしての価値を確立したといってよいだろう。
 テレビが映画にどれほどのインパクトをあたえたかを計量することはできない。しかし、この時期に映画界は収益面でとほうもないダメージを受けた。もっともひどかったのはワーナーで、1947年には2200万ドルあった収益が、6年後の1953年にはわずか290万ドルにまで落ち込んでしまったのである。まだ赤字ではないが、これほどの急激な落ち込みは企業の存立を脅かすものであり、それまでのやり方をつづけていくわけにはいかないのは明らかだった。

The Roxy, The Palace of Motion Picture
映画の殿堂ロクシー 「劇場王」サミュエル・“ロクシー”・ローザフェルが建てた「ムーヴィー・パレス時代」の豪華大劇場(1926)

 ハリウッドのいわゆる「スタジオ・システム」の中心には、製作、配給、上映の垂直統合がある。これによって、メイジャーは売り手市場をつくりだし、それをコントロールしてきた。そのような支配を背景にして、プロデューサー、監督、脚本家、俳優、撮影監督、その他、映画の製作に必要なあらゆるスタッフを契約によって囲い込み、映画のあらゆる側面をコントロールすることまでを含めたものが、「ハリウッドのスタジオ・システム」なのである。また、スタッフが専属だったことは、各スタジオ独特のカラーをつくりだすことにも寄与した(たとえば、アーサー・フリードのもとに結集したスタッフが、MGMミュージカルの黄金時代をつくった)。
 反トラスト法訴訟の決着は、そのスタジオ・システムの一角、もっとも太い柱をもぎ取ることにほかならなかった。もっとも太い柱がなくなれば、システムの残余部分も当然、影響を受ける。50年代に入って、メイジャーは契約制度を維持できなくなっていくのである。これはハリウッド音楽界が60年代に大飛躍を遂げる直接の契機のひとつとなる。
 その背景には製作費の高騰もあった。このころから、イギリスのパインウッドやイタリアのチネチッタなどの、設備も整っていて、ハリウッドにくらべれば人件費の安い海外のスタジオや、メキシコでのロケというように、海外で撮影された「ハリウッド映画」が増えはじめ、同時に、独立プロへの外注も増加する。メイジャーは上映という下流につづいて、製作という上流も失いはじめ、たんなる配給会社への道を歩みだすのである(後年、音楽業界にも同様の現象が起きることに、ここで注意を喚起しておきたい)。
 「スタジオ・システム」は瓦解しつつあった。しかし、完全なる崩壊にまではまだ少し余裕がある。大幅に収益を失ったワーナー・ブラザーズは、「敵」のあぎとに飛び込むことで、失地を回復しようとした。テレビ番組の制作下請けに乗り出したのである。
 (細かく見ていけば、この変化には微妙な上下動がある。1953年から翌年にかけては、固定費の削減と大作主義への移行が成果を上げて、久しぶりに映画界は目立った利益を上げた。20世紀フォックスは「シネマスコープ」による大作『聖衣』以降、30作品で500万ドルの大台に乗せた。どん底の状態で、わらをもつかむ気持ちでテレビ制作に乗り出したわけではなく、一度底を打ち、回復期にいたって、各社とも多少の余裕をもってテレビに参入したのである。しかし、「スタジオ・システム」の崩壊と消滅という大きな流れが変わったわけではなく、長い目で見れば、あくまでも小さな上下動にすぎなかった。)
 ハリウッドの独立プロデューサーは、メイジャーより早くテレビ番組の制作をはじめている。もっとも早かったのが、ルシール・ボールの『ルーシー・ショウ』である。すでに見たように、先陣を切ることの好きなわれらがビングのクロスビー・エンタープライズも、すぐにそのあとを追った。
 映画製作者のテレビ進出は、どういうわけか、1954年10月に集中した。まずコロンビアのテレビ制作子会社スクリーン・ジェムズ社の『名犬リンチンチン』がABCで、そして『パパは何でも知っている』がCBSで放送される(ともに日本でも放映され、わたし自身、どちらも熱心に見た。ドラマより、キッチンや居間や子ども部屋の造りのほうが気になったものだ)。

Screengems TV series 'Father Knows Best'
無自覚の罪『パパは何でも知っている』 かつて、この貧相なキッチンがアメリカの富の象徴に見えた時代があった。

 そして10月末には、独立プロデューサーのなかでも群を抜く大物、デイヴィッド・O・セルズニック("Light's Diamond Jubilee")とウォルト・ディズニー(『ディズニーランド』)が制作した番組が放送された。『キング・コング』『風と共に去りぬ』『第三の男』『レベッカ』を製作した、映画プロデューサーの代名詞ともいうべき人物が、テレビ番組をつくる時代がきたのである(セルズニックはこれに先立つ1949年に、映画関係の全事業を競売にかけているので、いずれにしても、もはや「映画プロデューサー」ではなかったのだが)。
 ワーナーは出遅れた。しかし、『サンセット77』『シャイアン』を皮切りに、ひとたびテレビに参入してからは、他のどのスタジオよりも果敢に攻め込んだ。長い話を端折るならば、ワーナーの積極策は、契約スタッフをある程度維持したまま60年代を迎えるという、他社にはできなかった収穫をもたらすことになる。

Warner's smash hit series '77 Sunset Strip'各年代、美男探偵を取り揃え候 ワーナー初期のヒット『サンセット77』。都合のよいことに、スタジオのドアを開ければ、そこはロケ現場だった。年齢の順にエフレム・ジンバリスト・ジュニア、ロジャー・スミス、エド・“櫛を貸してくれ”・バーンズ。ところで、美女はどこへいった?

 ワーナーはなんとか契約制度を維持したまま60年代のスタジオ売却にこぎ着け、かろうじて「天寿をまっとうした」といえる。しかし、他社はスタッフを解雇しなければならなかった。
 すぐれたキャッチコピーというのは一人歩きをする。日本のだれが、いつ「映画の都ハリウッド」というラベルをつくったのかは知らない。だが、すでにいまから半世紀前には、「映画の都」としてのハリウッドは崩壊していたのである。残ったのは失業者の群だった。

スタジオ・システムにおける音楽

 50年代後半は、ハリウッドにとって最悪の時代すら通りすぎて、すでに昔日とは異なった町へと変貌を開始した時期だった。それはテレビ制作への進出(あるいは「退却」)だけのことではない。
 現在の目から見るとやや意外なのだが、映画音楽もかつてはスタジオ専属のスタッフによってつくられていた。作曲家やアレンジャーだけではない。ミュージシャンまで含めて、すべて撮影所に所属し、給料をもらっていたのだ。もちろん、50年代の大崩壊が起きるまでの話である。
 1950年代、ヘンリー・マンシーニはユニヴァーサル映画の音楽部門に勤務し、『グレン・ミラー物語』(1954)の編曲ですでにオスカーも得ていた。しかし、ユニヴァーサルも他の撮影所と同じく、50年代後半にはスタッフを維持することができなくなっていた。1958年、マンシーニはスタジオから解雇された。
 なにもやることがないので、彼はとりあえず、撮影所内の床屋にいって散髪をした(ハリウッドの撮影所というのは、そういう場所なのだ。床屋どころか、医院、歯科医院、さらには学校まであった。子役の撮影の都合に合わせて授業をしてくれるのである)。散髪を終わって床屋から出てくると、ばったりブレイク・エドワーズに出くわした。エドワーズはすでに映画監督としてデビューしていたが、まだ名を知られるほどではなく、このときは主としてテレビドラマの演出をしていた。
 家族のことなどを話したあとで、エドワーズがふいに切り出した。
 「ところで、テレビをやる気はないか?」
 妻子を抱えて失業し、途方に暮れていたマンシーニは、即座にいった。
 「もちろん! どんな話だい?」
 それは『ピーター・ガン』だった。
 マンシーニが作曲した"Peter Gunn Theme"はレイ・アンソニーのヴァージョンでトップ10ヒットとなり、マンシーニ自身の名前でリリースされた、この時代としては大胆にジャズを取り入れたサントラ・アルバムは、グラミー最優秀アルバム賞を得た。
 それよりも重要なことは、このドラマが、フリーランスの映画音楽作曲家としてマンシーニが大成功を収めるきっかけとなったことである。彼の名声は、ふたたびエドワーズと組んだ『ティファニーで朝食を』(1961)で確立される。この映画の挿入曲"Moon River"を知らない音楽ファンはまずいないだろう。

Henry Mancini with Blake Edwards「誰のおかげで売れたと思ってるんだ!」 ブレイク・エドワーズ(左)とヘンリー・マンシーニ。音楽のおかげで映画がヒットしたのか、映画のおかげ音楽がヒットしたのか? 二人は手をたずさえて60年代を泳ぎわたった。

 ヘンリー・マンシーニは、ある意味で50年代のハリウッドと60年代のハリウッドを橋渡しする人物であり、さまざまな意味でハリウッド音楽界を象徴する存在である。それについては、いずれまた検討することになるだろう。
 アール・パーマーは、ハリウッド映画の黄金時代が終わったことがだれの目にも明らかになった1957年に、この町にたどり着いた。しかし、あとからふりかえれば、これ以上ないほど絶好のタイミングだった――。




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