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アール・パーマーがLAにやってきて一年後のことになるが、キャピトル・レコードはつぎのような広告を出した。
ナンバーワン・ロックンロール・ドラマー、キャピトルを訪問
ニューオーリンズがロックンロールに果たした貢献の最たるもの、それは素晴らしきドラマー、アール・パーマーである。彼は昨年、家族とともにハリウッドに移住した。このたびキャピトルは、ファッツ・ドミノ、リトル・リチャード、ロイ・ブラウン、アーニー・フリーマン、そしてリッキー・ネルソンのヒット曲でプレイしたこのドラマーを、"Drum Village"でデビューさせることになった。
アール・パーマー自身のシングル盤の広告だから、割り引いて読まなければいけない。しかし、ここには、この当時の彼に対する音楽業界内部の評価が端的にあらわれている。彼自身は好まなかっただろうが、このときのアールは、まちがいなく「ナンバーワン・ロックンロール・ドラマー」だった。
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| 2つのタムタム アールのセットはつねに2タムで、1タムのスタンダードなセットを使うこともなければ、ハル・ブレインのようなラック・タムを使うこともなかった。 |
もちろん、反論はあるだろう。D・J・フォンタナがいるじゃないか? たしかにいた。しかし、初期のエルヴィスの盤をいま聴くと、ミスのせいで居心地の悪い思いをさせられることがある。控えめなドラミングならそれほど気にならないのだが、ドラムが前に出てくる曲になると不安定さが目立つのである。
"Hound Dog"におけるエルヴィスのパワーは素晴らしい。しかし、フォンタナは、スタジオ盤ではなんとかこなしているものの、ライヴ・フッテージを見ると、ドラマーにとっても、この曲にとっても見せ場である、ストップ直前のスネアの3連符を大きくはずしているのである。あるいはスタジオ盤でも、たとえば"Too Much"のドラミングなどは、タイムが揺れて居心地が悪い。[*注1]
彼の荒削りな気合いのドラミングは、初期のエルヴィスのエネルギー、ワイルドな魅力とうまく響き合った。しかし、それだけでやっていけるのはわずかなあいだだけだ。エルヴィス自身、60年代に入ると、フォンタナは脇にまわして、正規の音楽教育を受け、すぐれた技術をもつバディー・ハーマンやハル・ブレイン(たまたま二人ともロイ・ナップ・パーカッション・スクールの出身だった)に依存するようになること自体が、精度と技巧をもたないドラマーの時代が終わったこと、すくなくともスタジオには居場所がなくなったことを端的に示している。
アール・パーマーは正規の教育を受けたすぐれたジャズ・ドラマーでありながら、運命のいたずらで、R&R時代を切り開くとてつもないシャウターといっしょに仕事をし、そのプレイをアメリカ中の人間が聴くことになった。これが彼のキャリアを決定したのである。
アールはなにも成算がなくて、LAにやってきたわけではない。すでに見たように、彼はニューオーリンズ時代にLAの会社の仕事を山ほどやっている。ファッツのインペリアル、リチャードのスペシャルティ、シャーリー&リーのアラディンは、いずれもLAのレーベルだ。
ルー・チャドはJ&Mの響きや機材を嫌い、できればLAで録音したいと思っていた。アラディンはアールにA&Rのポジションを提供した。彼はアラディンのシャーリー&リーのために"Let the Good Times Roll"をアレンジし、プロデュースして、ヒットを生んだ(アール「シャーリーはシャープし、それを補うかのようにリーはフラットした。彼らが曲がりなりにもヒットを飛ばしたのは信じがたい」)。じっさい、アラディンの給料をあてにして、彼はLA移住を決意したのだった。
LAの独立レーベルのオーナーたちは、しばしば彼らに利益をもたらしたアールに、カリフォルニアにくるようにと強く勧めた。そして、待ちに待ったドラマーがじっさいにやってきたとき、ルー・チャドはいった。
アールがやってきた以上、今後、うちが出すすべての盤で彼を使うことにする。
LAの独立レーベルは、ずっとアール・パーマーに依存してきた。彼がLAにきたということは、ニューオーリンズにいかなくても、アールのドラムを録音することができ、ひいてはコストを削減できることを意味した。
もちろん、LAにプロのドラマーがいなかったわけではない。それどころか、山ほどいた。しかし、彼らはジャズ出身で、ほとんどのドラマーは基本的にはジャズ・ドラミングしかできなかった(または、「やろうとしなかった」)。この時代のLAのセッション・ドラマーでR&Bも含むポップ系のレコーディングでエースだったのは、エドワード・“シャーキー”・ホールやジェシー・セイルズあたりだろう(映画や放送関係にはまたべつの系統のドラマー、たとえばシェリー・マンやジャック・スパーリングやラリー・バンカーなどがいた)。どちらも悪いドラマーではないが、アールのような新しさはもっていなかった。じっさい、のちのプレイを聴けば明らかだが、セイルズはアールのスタイルを模すようになる。
アールもすぐれたジャズ・ドラマーだったが、他のジャズ・ドラマーがもっていない時代感覚によって、ポップ・ミュージックの新しい分野の発展に貢献し、なによりも、時代の好尚に合ったヘヴィー・バックビートでヒットに貢献した。
音楽界はヒットには敏感だ。だれかがヒットを飛ばせば、たちまち無数の人間が群がり、分け前にあずかろうとする。ファッツやリチャードは使いまわすことができないし、他の会社には手の出しようもないが、ヒット・サウンドをつくったスタッフはちがう。だれでも自由に利用することができるのだ。
アールは、アメリカのポピュラー音楽界が彼のようなドラマーをもっとも必要としていたまさにそのときに、LAにやってきた。まだハリウッドはアメリカ最大の音楽センターにはなっていなかったが、そのために必要とされる大きな駒、ナンバーワン・ロックンロール・ドラマーを、この町はニューオーリンズから奪い取ったのだった。
だが、彼がLAにやってきたのは、もちろんロックンロール・ドラマーになるためではないし、広い意味でのブラック・ミュージックにも関心がなかった。目標は映画とテレビの世界だったのである。アールは直接にはいっていないが、この時期にスタジオ・システムが崩壊し、それまでは閉鎖的だった映画音楽の「市場開放」が進み、同時にテレビ音楽という新しい市場が急速に成長していたことは、当然、彼の頭にあったはずだ。この点は他の町にはないハリウッドの大きな魅力で、アールのみならず、多くの優秀なミュージシャンを誘引することになる。撮影所がスタッフ制を維持していたら、この現象は起こらなかっただろう。
しかし、アールのディスコグラフィーを見ると、1957年はまだ彼の「ロックンロール時代」だったことがわかる。レーベルはスペシャルティ、アラディン、インペリアルといった独立系が大多数を占め、楽曲もR&RやR&Bである。たとえば、ラリー・ウィリアムズの"Slow Down""Bony Moronie""Bad Boy"(スペシャルティ)、サーストン・ハリスの"Little Bitty Pretty One"(アラディン)などである。いずれも後年、ビートルズやデイヴ・クラーク・ファイヴをはじめとする、ブリティッシュ・ビート・グループの重要なレパートリーとなる。
そんななかで注目すべきは、この年にヴァーヴからデビューしたリッキー・ネルソンだ。両親が主演するテレビのホームドラマ『陽気なネルソン』に出演して人気者になった、この白人ティーネイジ・アイドルはロックンロール、R&Bを好み、エルヴィス、カール・パーキンズ、ファッツ・ドミノなどのファンだった。[*注2]
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| ドリーム・ボーイ ネルソン家の居間でギブソンを弾くリッキー。しかし、これはセットのネルソン家なのか、本物のネルソン家なのか? |
リックを「水で薄めたエルヴィス」と皮肉った人たちには意外かもしれないが、彼はサウンドに対してすぐれたセンスをもっていた。彼の父親オジー・ネルソンは有名なバンド・リーダーだった。プレイヤーとしてはお粗末で、プロデューサー、経営者としての能力があったといわれているが(アレンジャー、映画音楽作曲者として知られるビリー・メイは、「ミュージシャンのわりには、オジーはすぐれた法律家だった」と皮肉っている)、リックもやがて、父親の血を受け継いでいることを証明することになるだろう。
1957年春、バーニー・ケッセルのプロデュース[*注3]で、シンガーとしてデビューすることになったとき、リックはファッツ・ドミノの最新ヒット"I'm Walkin'"をカヴァーして、パット・ブーンのひそみに倣った。
このときの録音メンバーは明確ではないし、関係者の記憶もまちまちだが、ドラムがアールだったことはわかっている。アールはこの録音に先立つことわずか2カ月ほど前、まだニューオーリンズにいた57年1月に、ファッツの"I'm Walkin'"のオリジナルでドラムを叩いた。ケッセルが望んでいたのは、ファッツと同じ、ニューオーリンズR&Bサウンドだった。いわば、アールは彼自身のはまり役をハリウッドで再演することになったのである。
ファッツに傾倒していたリックは、あのサウンドをつくったアールを尊敬していた。彼はヴァーヴでの録音メンバーは「大人ばかりで」「ロックンロールのセンスをもっていない」ので好まなかったが、アールだけはべつだった(しかし、これはすぐれたトラックだ。ギター――おそらくはケッセル自身のプレイ――もサックスも、この時代としては文句がない。まだ16歳だったリッキーは、もっと年齢の近い人間をもとめただけだろう)。
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| 「なかなか筋がいいじゃないか。きみがドラムを叩き、オレが歌うっていうのはどうだ?」 ドラム・ストゥールに坐るリッキー・ネルソンと、それを見守る「よき師」アール・パーマー。 |
"I'm Walkin'"とカップリングされた"A Teenager's Romance"は、最終的にA面を上まわるヒットとなり、リックは「甘いロッカ・バラッド」という金脈を掘り当てた(その後もしばしばすぐれたロッカ・バラッドをリリースするが、これはリック自身の好みというより、マネージャーだった父親のオジーの好みで、選曲はしばしば親子の対立の原因となる。第三者としていえば、リックは彼自身がそうありたいと願ったロッカーの資質にはあまり恵まれず、バラディアとしての魅力に富んでいた)。
短期の契約しか提示しなかったヴァーヴにはこの両面ヒットを残しただけで、リックはすぐにファッツが所属するインペリアルに移籍する。しかし、アールはしばらくのあいだリックの録音につきあうことになり、インペリアルでの最初の大ヒット"Be-Bop Baby"でもプレイしている。アールは「大人」だったが、ロックンロール・ビートとアール・パーマーはこの時代には同義語だったし、インペリアルはいわばアールのホームグラウンドだったのだ。
ヒットが生まれたら、ロードに出なければならない。しかし、巡業先で調達したローカル・バンドは、たいていがロックンロールなどプレイできず、リックは何度も痛い目にあった。また、スタジオで「大人」のプレイヤーたちと仕事をするのも居心地悪く思っていた。この二つの問題を解決するために、彼はパーマネントなバンドを組もうと考えた。いずれにしても、ハリウッドのスタジオ・エースたちは、月曜から金曜まで、そして朝から晩まで、スタジオにこもりきりで仕事をつづけるものだし、うっかり町を明けて、やっとつかんだスタジオ・レギュラーの座を奪われるのを怖れていたので、長期のロードには出なかった。そういう不利な仕事(ペイも安く、家を離れて、即日移動の一夜興行がつづく、きつい旅をしなければならない)は、まだ若いプレイヤーや、スタジオに入り込めなかったプレイヤーがすることになっていたのである。
スコティー・ムーア、ビル・ブラック、D・J・フォンタナというエルヴィスのバンドの3人は、パーカー大佐がくれる給料に不満をもっていて(想像するに、ツアー・バンドの給料としては水準どおりだったのだろうが、大センセーションを巻き起こしたことによるボーナスはなかったのだろう)、ほかによい話があれば、エルヴィスのもとを離れたいと思っていた。リックはこのバンドを雇おうかと考え、オーディションをしたが、結局、音が気に入らなかった(わたしがリックに敬意を感じるのは、子どものときから、こういう判断のよさ、センスのよさを示している点である)。
それからしばらくたった57年秋のある日、リックはインペリアル・レコードのルー・チャドのオフィスにいた。どこかからくぐもった音楽が聞こえてきた。リックの好きな曲なので、音をたどっていくと、それはリハーサル中のボブ・ルーマンのバンドだった。リックはこのバンドの若いギタリストのプレイに惚れ込んだ。そのギタリスト、ルイジアナ州シュリーヴポート出身のジェイムズ・バートンはまだ18歳で、16歳のリック自身とあまり変わらない年齢だったことも気に入った。リックがスタジオでいっしょに仕事をした、バーニー・ケッセル、ジョー・メイフィス、ハワード・ロバーツ、ビル・ピットマンといったヴェテラン・ギタリストたちの息子であってもおかしくないほど若かったのである。
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| 16歳のシンガーと18歳のギタリスト 左からジェイムズ・カークランド、リッキー、ジェイムズ・バートン。 |
バートンとスタンダップ・ベースのジェイムズ・カークランドは、すぐにオジーに雇われて、リックのバックでプレイするようになり、ドラマのほうにも出演し、レコーディングにも参加した。バートンは当初、リードのジョー・メイフィスをサポートするリズム・ギターをプレイしたが、58年4月のシングル"Believe What You Say"からはリードを弾くことになり、その先進的なプレイによってリックのトラックと、「テレキャスターの魔術師」としてのバートン自身の名を不朽のものとすることになる。エルヴィスのバンドを袖にして、バートンを選んだリックの判断が正しかったことは、彼が残したカタログを聴けば疑いがない。リックなどいなくてもかまわないほど、バートンのギター・プレイは魅力的なのである。
だが、バートンがリックのバンドを離れて、スタジオ・エースになるのはまだ未来のことだし、リックはもうひとりの未来のエースをスカウトすることになるのだが、こちらのほうもまだ先の話である。
この年にアールが仕事をしたシンガーでもうひとり注目すべきは、トミー・サンズだ。サンズもまた「水で薄めたエルヴィス」だった。たしかに、これといった特徴のないシンガーで、印象が薄いが(逆にいえば嫌味がなく、個人的には好ましく感じるが)、重要なことは、彼がリックと並ぶ白人ティーネイジ・アイドルであり、キャピトル・レコードのアーティストだったということだ。
アールがこれまでに経験したレーベルは、いずれもR&Bを中核とした独立レーベルだった。だが、キャピトルはちがう。西海岸で最初のメイジャーであり、フランク・シナトラのレーベルだ(じっさい、ハリウッド&ヴァインにある本社「キャピトル・タワー」は「シナトラが建てた」といわれている。現在も残るこのスタジオで最初にレコーディングしたのは、もちろん「施主」シナトラだった。ちなみに、本社ビルを「建てた」のはシナトラだったかもしれないが、キャピトルを「つくった」のはナット・“キング”・コールだった)。
アールがプレイした裏付けがとれている曲は"Sing Boy Sing"しかない。この曲のドラムはブラシによる控えめなプレイで、安定したビートを提供しているだけだ。のちに顕著になる、アールのハリウッドへの「過適応」が、この曲ですでにはじまっていたようにも聞こえる。ハリウッドにやってきた彼は、自分がシンプルな曲でワイルドなプレイをするだけのアマチュアではなく、正規の教育を受けたプロであり、どのような音楽スタイルにでも適応できることを証明しようとしていた。そうしなければ、より高いレベルの仕事(たとえば映画音楽)に食い込めなかったからだ。その結果、ニューオーリンズ時代に見せた重い左手のハード・ヒットはやがて影を潜め、シェリー・マンをさらに洗練したようなドラミングが彼の特徴となっていくのである。
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| レコード会社よりビッグな男 キャピトル・タワーの縮小模型と実物大のフランク・シナトラ。レコード盤を積み重ねたイメージをビルにしたのだという噂を、設計者ウェルトン・ベケットは否定した。屋上には針もあったのだが!(1954) |
シナトラの女婿(サンズはナンシーの最初の夫だった)、ほんの短いあいだだが「シナトラの後継者」と呼ばれることになるサンズのセッションに、アールが呼ばれることになった経緯はわからない。しかし、狭い業界だから、アールのプレイも、彼がLAにきたことも知れ渡っていたはずである。コントラクター(プレイヤー集めを代行する)の推薦にオーケイするメイジャーのA&Rがいてもなんの不思議もない。
逆の側から見ると、べつのファクターもある。メイジャーもR&R時代への対応を迫られていたのだ。いつまでも、ドラムが1マイル彼方で囁いているようなバラッドや、スウィング・ジャズを引きずったダンス・ミュージックばかりつくっているわけにはいかない(1955年、RCAがサンからエルヴィスを買い取った――象が蚤を札びらでひっぱたいた――ときに、すでにメイジャー間の競争ははじまっていた)。市場のかなりの部分が重いバックビートのある音楽を好むようになってしまったのである。
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| 誰もがドラムを叩きたがる ハル・ブレインをドラム・セットからどけたトミー・サンズ。ハルは右端に立っている。数年後、この男がアールを猛追撃する。 |
サンズについてはもうひとつ興味深いことがある。彼のツアー・バンド「ザ・シャークス」には、ドラマー兼ロード・マネージャーとして、60年代にアールの強力なライヴァルとなるハル・ブレインが参加していたのである。
ハルが気に入っていたというだけあって、このバンドは強力で、すぐにハリウッドのヴェテランたちを押しのけて、レコーディングにも参加するようになる。もちろん、このときのハルは、スタジオ・ドラマーとしては駆け出しだが、後年、彼の最大の武器となる、明るさ、華やかさ、スピード感の萌芽が随所に感じられるプレイをすでに展開している。60年代に入って、アールとハルはさまざまなアーティストの仕事を分け合うことになるが、トミー・サンズはその嚆矢だったのである。
どうであれ、リック・ネルソンとトミー・サンズの録音に参加したことで、アール・パーマーは南部の黒人ドラマーという枠組から抜け出すきっかけをつかんだ。業界の「上」のほうも、この比類なきドラマーの技量を知ったのである。
57年には、アールはもうひとり重要なアーティストとレコーディングした。サム・クックである。アールはすでにニューオーリンズ時代にサムと会っていた。サムはスペシャルティのアーティストだったので、ニューオーリンズで録音したことがあり、そのときにアールがドラムを叩き、セッション・リーダーをつとめたのである。
リトル・リチャードの大成功で波に乗っていたプロデューサーのバンプス・ブラックウェルは、このときはまだゴスペル・グループ「ソウル・スターラーズ」のリード・シンガーだったサム・クックに、ポップへの転向を強く勧めた。
リチャードと異なり、サム・クックはハンサムで、ヘテロ・セクシャルだった。じっさい、彼はとほうもないレイディー・キラーで、のちに、情事のために泊まったモーテルで射殺されたとき、嫉妬した夫人が殺し屋を差し向けたのだと噂されたほどだ。ゲイであることを隠さず、奇矯なメーキャップと衣裳を好むリトル・リチャードですらポップ・フィールドで大成功したのだ、サムならばもっと大きな成功を収める可能性があるとバンプスが思ったのも、無理もないことだった。
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| キング、未来のクウィーンに謁見す サム・クックとアリサ・フランクリン。生きてさえいれば、だれにも玉座を譲り渡すことはなかっただろう。 |
話はややそれるが、ファンと当事者のあいだに横たわるギャップのなかで、もっとも大きいと思われるのは、ファンはポップ・ミュージックをある種の「アート」だと思いたがる傾向があるのに対して、当事者は、たとえどれほどアーティスティックに見えようと、あくまでも音楽を「のし上がる手段」、あるいはすくなくとも「糊口をしのぐ方法」と考えていることである。現代はいざ知らず、すくなくとも過去においてはそうだった。
ルー・チャドやアート・ループのような経営者は、ユダヤ人であるがゆえに、堅気のビジネスには入り込めず、娯楽産業に活路をもとめたのである(チャドはセントルイス・カーディナルズのファームでメイジャーを目指したこともあった。プロスポーツと娯楽産業はどの時代でもマイノリティーを受け入れてきたのだ)。じっさい、彼らはのちに石油で一儲けして、音楽に関心を失う。チャドは会社をリバティに売却し、ループもいったんはスペシャルティの活動を停止する(のちにリイシュー・レーベルとして復活させるが、最終的にはファンタシー・レコードに売却する)。
サムも、ゴスペル・ファンがどう考えようと、「神のしもべ」として歌っていたわけではない。チャンスの少ない黒人が生きる道を探して、自分の才能に合った生活手段を見つけたにすぎないのだ(それに情事の相手もよりどりみどりだ)。ソウル・スターラーズのスターも悪くはないだろうが、ゴスペル市場はあまりにも小さなパイで、野心のある人間はいずれ去るべき場所だった。そして、アールがニューオーリンズを去ったのと時を同じくして、サムもゴスペルとソウル・スターラーズを去る決意を固めた。
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| キリストとユダ スタジオのサム・クック(右)とバンプス・ブラックウェル |
サムはバンプスに6曲のポップ・チューンのデモ・テープをわたし、バンプスはそこからいくつか選び出して、本番のセッションをおこない、大ヒット曲"You Send Me"を生みだして、ポップ・スター、サム・クック誕生の産婆役を果たした。[*注4]
ニューオーリンズでバンプスとしばしば仕事をしたアールは、このセッションにも呼ばれた。"You Send Me"というのは、ゴージャスなバッキングなど受け付けないタイプの曲なので、アールはここでもまたメトロノームの役割に徹している。しかし、彼はいずれ、サム・クックのトラックでも素晴らしいドラミングを見せることになるだろう。
ソウル・スターラーズで「神の子」を演じていた時期のサムを愛する人たちは、バンプスをユダかメフィストのようにいうが、彼はサム・クックのポップ転向を成功させたことで、ハリウッド音楽界に大きな貢献を果たした。いや、仮にサムのポップ転向が失敗したとしても、すくなくとも、ひとりのたぐいまれな女性をスカウトしたことで、バンプスは「60年代を準備した」のだった――。
キャロル・ケイは、1935年ごろ、ワシントン州の小さな町エヴァレットで生まれ、すぐにカリフォルニアに引っ越した。14歳のときに教師についてギターを習いはじめたが、たちまちにして、この教師の助手をつとめるようになり、わずかながら給料をもらうほどにまで上達した。
それからまもなく、この怖いもの知らずの少女は、ギターを片手に黒人のクラブが軒を並べるセントラル・アヴェニューに出かけ、ギタリストとして雇われた。
![]() | キャロル・ケイ まだ十代だろうか。彼女が手にするこの「エピフォン・エンペラー」は、やがて数々のヒット曲で美しいコードを奏でることになる。 |
やがて彼女は同じバンドのベーシストと結婚して(「ケイ」はこのベーシストの姓だった)、子どもを産み、そして離婚した。幼い子どもと、年老いた母親の生活が彼女の双肩にのしかかった。きちんとした収入のある昼間の仕事をしながら、彼女は音楽をあきらめず、夜は以前のようにクラブでギターを弾きつづけた。ケイはいう。
あの時代[50年代]には、プロデューサーやアレンジャーたちは、すぐれたジャズを聴きにナイトクラブに通うのを好んだし、たいていのミュージシャンがジャズ出身だった。フィル・スペクター、ハーブ・アルパート、バンプス・ブラックウェル……。ドット・レコード、キャピトル・レコードをはじめ、あらゆるホットなレーベルの人々がジャズを聴きにいった。
このようなクラブ通いで、バンプス・ブラックウェルはケイを「発見」した。彼はケイに、一度、スタジオで仕事をしてみないか、と誘った。彼女は迷った。ひとたびスタジオ・ワークをはじめたら、ジャズ・ミュージシャンとしては終わりだといわれていたのである(たしかに、そういう面もあっただろうが、それよりも、やっかみのほうを強く感じる。スタジオで働きながらプレイしつづけた人たちは枚挙にいとまがない)。
しかし、結局は経済が勝った。気に染まない昼間の仕事をするより、まがりなりにもギターをプレイすることで家族を養えるなら、そのほうがよいと思ったのだ。
彼女が呼ばれたのはサム・クックのセッションだった。ケイがやってきたとき、すでに"You Send Me"の録音は終わっていて、タッチの差でこの簡潔で美しいバラッドの収録には参加できなかった。彼女のスタジオ初仕事は、バンプスが「ポップ・スター」サム・クックのデビュー曲にしようと考えていた"Summertime"だった。彼女はリズム・ギターだった。
このときから、彼女のエピフォン・エンペラーによるアコースティック・リズムは、60年代前半にかけて、しばしばヒット・チャートをにぎわすことになる。しかし、彼女のポップ・ミュージックに対する最大の貢献は、リズム・ギターではない。数年後に、さらなるビッグ・タイムが待っているだろう。
バンプスとサムを介して、アール・パーマーはハリウッドでのルーキー・イヤーに、キャロル・ケイと出会った。60年代への準備は着々と進んでいた。
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