Track 7


デカい波に乗れ!

―Ride the Wild Surf―



Rendezvous Ballroom, Santa Monica?





 ボビー・ヴィーも、ジーン・マクダニエルズも、サウンドとしては申し分なかったし、シェリー・ファブレイもキュートだった。しかし、50年代の「荒ぶる魂」はどこへいってしまったのだろう? エルヴィスが入隊し、バディー・ホリーやエディー・コクランが没し、リトル・リチャードが教会に入ってしまったぐらいで、あれだけの雄叫びをあげたティーネイジャーが、みなおとなしく家に帰ってしまったとは思えない。
 60年代初頭のティーン・ポップ、ガール・グループ&シンガーのドリーミー・ポップを愛している人たちもたくさんいるし、個人的にも、それはそれで悪くないと思う。主としてナッシュヴィルで録音していたロイ・オービソンやエヴァリー・ブラザーズやジョニー・ティロットソン、コニー・フランシスやブレンダ・リー、ニューヨークで録音していたシレルズ、ニール・セダカ、ドリフターズ、あるいは、ほかならぬハリウッドで、アール・パーマーのドラミングをバックに歌ったフリートウッズなど、いずれもそれぞれによさがある。あるいは、50年代にくらべると評価の低い60年代初期のエルヴィスも、50年代の荒々しさは消えたが、依然としてすばらしいエネルギーにあふれているし、シンガーとしての成熟もはじまっていて、バディー・ハーマンら、ナッシュヴィルのプロによる安定したバッキングもふくめ、むしろ50年代より好ましいとさえ思う。
 1950年代、ロックンロールは一過性のブームとみなされていた。いずれは、かつてと同じような、穏やかなメインストリーム・ポップの時代に回帰し、王冠はシナトラからパット・ブーンにわたされ、譲位が完了すると考えられていた。そして、1960年代が幕を開けたときも、じっさいにそのようになったかのように見えた。ロックンロールの波は去り、穏やかな曲がチャートの上位を占めていた。

波立ちぬ

 だが、すくなくとも南カリフォルニアには、荒ぶる魂が生きていた。60年代はじめのカリフォルニアのティーネイジャーの荒ぶる魂は海と浜辺にあった。
 LAというのは、都市鉄道網が発達しないままむやみに膨張したおかげで、車なくしては身動きのとれない土地だ。東部のティーネイジャーが自分の車を所有していることはめったになかったが、LAではごく当たり前のように高校生が車に乗っていた。そして、LAでは50年代からフリーウェイの建設ラッシュがつづき、60年代初頭には主要な道路交通網が整って、「スプロウル」という社会学用語そのままに延び広がった地域を相互に接続した。たとえば、エル・モンテのような「陸封」されたLA郡の町に住んでいても、週末にはヴェニス、サンタ・モニカ、マリブ、ハンティングトン、さらには遠くニューポート、バルボアにまで繰り出して、海にふれることができるようになったのである(逆の流れもあった。LA市警の管轄の外に追い出されたジョニー・オーティスの週末のダンス・ナイトは、エル・モンテ・リージョン・スタジアムに舞台を移した。それでも満員になったのは、やはり車のおかげだった)。
 だだっ広いLAでは、車を抜きにしては海を楽しむことは不可能だった。だから、戦後、所得が大きく伸び、複数の車を所有する家庭が増えていったこと、そして、それと並行してLA郡一帯の高速道路網が整備されたことは、大きな意味があったのである。そして、この事実はそのまま音楽に影響をあたえた。
 さて、サーフ・ミュージックである。サーフ・ミュージックとは、一般に、
An unknown surfer

 このような身体的状態がもたらす精神の昂揚を、音として表現したものと説明されている。しかし、アザラシでさえときおり陸にあがって休む。サーファーが陸にあがると、一般に、
A shot from an unknown bikini movie

 このような行為をおこなうと説明されている。このような行為をするには音楽が不可欠である。そこで、

 このようにしてみたらどうだろうか、と提案する楽器製造会社があらわれた。カリフォルニアはサンタ・アナに本拠をおくフェンダー・コーポレーションである。しかし、こんなアクロバットができるのは一握りの人間だけだし、楽器は塩分も水分も嫌うので、
An Fender poster

 という、より一般性のある、現実的なアイディアも生まれた。私見では、こちらのほうに大きく重心がかかった。
 こういうことだ。50年代のロックンロールと同じように、サーフ・ミュージックもまた、思春期の特徴である、テストステロンの際限のない分泌がもたらしたものだった。テストステロンは海ではなく、女性へと男を向かわせる。いや、差別的発言になるとまずいので言い直すが、「性別不問」の対象に向かって性衝動を発動させる。どの文化でもそうだと思うが、浜辺は性衝動を解放するには最適の場所である。
 かくして、サーフ・ミュージックは陸へと舞いもどり、衝動のおもむくままにテストステロンをぶちまけるようなサウンドが生みだされた。それが以下のような状態である。
Surf Goddess Sandra Dee on a board

 もとい、以下のような状態である。
Dick Dale at the Rendezvous Ballroom, Balboa, CA.

 くだらない写真でページを重くして申し訳ない。しかし、このようなアイコンも、カリフォルニアの外へとこの「文化」をもちだすには有効だった。この時期に何本か「ビーチ・ムーヴィー」を見た小学生のわたしにとっては、ビキニ・ガールズはサウンド以上に大きな意味をもっていた。カリフォルニアに住んでいないアメリカのティーネイジャーの多くにとっても、これはきっと新鮮な驚きだったにちがいない。フェンダー・ギターのケーブルは、直接にビキニのイメージにプラグインされていたのだ。

デュアル・ショウマンとリヴァーブ・ユニット――真の「ザ・キング・オヴ・サーフ」

 似非社会学、似非性科学はこれくらいにして、本題であるサウンドの検討に入る。
 サーフ・ミュージックの創始者は、ディック・デイルだといわれている。1938年、レバノン人の父親とポーランド人の母親のあいだに、ボストンで生まれたデイルは、9歳のときからピアノを弾きはじめ、やがてギターやトランペットもプレイするようになった。高校のときにLA郊外のエル・セグンドに引っ越し、卒業後はヒューズ・エアクラフトに勤めた。やがてローカル・バンドのトランペッターとなり、このころからディック・デイルと名乗るようになる。
 1959年、父親がデル・トーンという独立レーベルを設立し、デイルはここから数枚のヴォーカル盤をリリースする。1961年はじめ、彼は自分のバンドを組んで、バルボアのアイスクリーム・パーラーに出演するようになる。そして、バルボアの近くに引っ越してサーフィンを楽しむようにもなった。
 アイスクリーム・パーラーを首になると、デイルはバルボアの「ランデヴー・ボールルーム」を借り受け、ダンス・パーティーを主催するようになり、みずからのバンド、デルトーンズをハウスバンドとする。デイルは記憶がよくないか、アメリカ人によくある「話をふくらませる」タイプらしく、インタヴューにもとづく複数のストーリーがあり、このへんも異説があるが、重要ではないので気にせずに先に進む。ランデヴーのダンス・ナイトはやがて評判を呼び、日に4000人の客がつどうことになったという(しかし、ランデヴーの収容人員は千人あまりだったという証言もある。デイルのいうことは話半分にきいておくほうがよい)。
 ランデヴーはLAの中心部からは遠く、細長いバルボア半島の先端にあるので足場はよくないが、LAのティーネイジャーは自分の車をもっているか、使える車があったので、そんなことは問題ではなかった。いや、むしろ、それぞれの改造車を競うことができるので好都合だった。海と車と音楽は一体だったのである。だから、のちに、サーフ・ミュージックのスピンオフとして、ホットロッド・ミュージックが生まれ、「サーフ&ドラッグ」と総称されるようになるわけだ。
 この時代にデイルはレオ・フェンダーと知り合い、フェンダーの新しいギターアンプの開発に協力する。そしてできたのが、60年12月に発売された高出力の「フェンダー・ショウマン」であり、それをさらに高出力にした「デュアル・ショウマン」である。
 デイルのギターは、左利きの彼に合わせたカスタム・メイドのストラトキャスターだった。ストラトとデュアル・ショウマン、そして、フェンダーがやはりデイルのために開発したリヴァーブ・ユニットという組み合わせが、サーフ・ミュージックのスタンダードとなる。大出力のアンプ、きわめて「ウェット」な音がつくれるリヴァーブなくしては、いま現在われわれがイメージする「サーフ・サウンド」はありえなかった。デイルは、サーフィンをしているときの感覚を表現するのに、こうした機材が必要だと感じた理由を説明しているが、それはどうでもよい。だいじなのは、この扇情的なサウンドが南カリフォルニアのティーネイジャーの心をとらえたことだ。

Dick Dale and the Beast
ディック・デイルと“ザ・ビースト” ジミ・ヘンドリクスと同じく、左利きのデイルは、ギターの向きだけ変えて、弦の張り方は変えなかった。高音のE弦が上のほうにくるのである!

 デイルの曲で最初にサーフ・クラシックとなったのは、彼がヴォーカル曲からインストゥルメンタルに転じた61年9月の“Let's Go Trippin'”だが、この時点ではまだリヴァーブの音は聞こえない。手元にあるかぎり、リヴァーブが使われた最初の曲は62年3月の“Shake 'n' Stomp”である。彼の特徴であるダブル・ピッキングと深いリヴァーブが組み合わさって、エキゾティックかつ攻撃的なギター・サウンドが聴ける。このスタイルが、彼の代表作、同年5月の“Misirlou”を生んだ。後年、映画『パルプ・フィクション』に使われて、90年代のサーフ・リヴァイヴァルのきっかけとなった曲である。
 ランデヴーでのライヴを経験した人物は、デイルの魅力は盤ではわからない、ライヴでこそ力を発揮するタイプだといっている。しかし、わたしにいわせれば、それは雰囲気に酔ってだまされているときに魅力的に感じるプレイであって、冷静な気分で聴いても面白くないということを意味する。つまり、スタジオというのは、アマチュアの未熟さを白日の下に露呈させるきびしい場所だということだ。デルトーンズも素人集団で、デイルが巻き起こしたブームで雨後の筍のように誕生した素人バンドのなかでは中の上ぐらいに位置するが、それ以上ではなく、デイルのキャピトル契約後はスタジオに呼ばれすらしない。
 だいじなのは、デイルがリヴァーブを強調したギター・サウンドによる「サーフ・ミュージック」というものを生みだし、南カリフォルニアの子どもたちのイマジネーションを刺激したことだけである。これは、「移民の国の移民の州」カリフォルニア、とりわけ陽光あふれる南カリフォルニアがもったはじめてのエスニック・ミュージックだった。そして、この土地が映画産業の中心地だったおかげで、このサウンドは、ビキニ、車、脳天気なライフスタイルと合体して、やがてアメリカ国内だけでなく、海外にまで伝播していくことになる。

音楽からの逸脱

 デイルのプレイはまだしも面白みがあるのだが、彼の影響を受けて、サーフ・ミュージックとフェンダー・ギター(そして、その向こうにはビキニ・ガールのイメージが見えていた)に突進した若者たちがつくりだした音楽は、とほうもないゴミの山である。サーフ・ミュージックはパンク・ミュージックだ。なんの訓練も受けていない子どもが、直感と衝動だけで生みだした「音塊」でしかない。
 このような現象は、ポップ・ミュージックの歴史のなかで4回起こっている。エルヴィスの登場によってうながされた50年代のロックンロール・ブーム、サーフ・ブーム、60年代後半にサンフランシスコを中心にして起きたサイケデリック・ブーム、そして70年代にイギリスで起きたパンク・ロック・ブームである。共通するものは、素人による、ピッチもタイムも和声もみんなクソ食らえ、と絶叫する、やぶれかぶれの下手くそな音楽ということに尽きる。時代が古いほど音楽的で、かなりの数のプロがかかわっていた(しかし、たとえばエルヴィスのバンドは素人の集団だった)50年代のロックンロールがいちばんマシだった。60年代初期のサーフ・ブームになると、「音楽からの逸脱」の度合いが進んで、ひどいことになる(が、まだ70年代パンクのように、自覚的に逸脱を目指していたわけではない。たんなる未成熟、たんなる無知だった)。
 このような馬鹿馬鹿しいまでのエネルギーの爆発、テストステロンの暴走のほうを、ピッチやタイムといった音楽の根幹部より重要と考える音楽ファンが、ポップ/ロックの世界には相当数存在していることは認めるし、わたしのなかにも、そういうものをよしとする気分がかすかにあるようだ。しかし、所詮、それはエネルギーの問題、社会学の問題であって、音楽の問題ではないので、そういうことはサーフ・ミュージック研究書やパンク・ロック研究書などにゆずり、ここでは音楽を検討したい。
 ひとつだけはっきりしているのは、このような「野生状態」そのままの「音塊」は商売にならないということだ。初期サーフ・ミュージックの大多数は、この時点でもまだ200以上あった独立レーベルが、そこらにいる若者たちをつかまえてスタジオに押し込んでつくったものである。もともとコストはかかっていないし、プロモーションなどしないから、地元ではヒットしても、ナショナル・ヒットになったのはほんの一握りだけだった。60〜62年ぐらいのあいだは、サーフ・ミュージックはカリフォルニアの子どもの興味を惹くにすぎなかったのである。
 ハリウッドのメイジャー・レーベルや、有象無象の独立レーベルとは格の違う有名独立レーベルは、子どもの素人バンドにはあまり興味を示さなかった。だが、サーフ・ミュージック自体はビジネスとしてのポテンシャルをもっていたし、ハリウッドにとっては地元の音楽だから、はじめからニューヨークやナッシュヴィルのライヴァルたちよりはるかに優位に立っていた。これを見逃す手はないのだが、いかんせん、あまりにも粗雑で、テストステロンの影響で狂っていないふつうの人間には、聴くに堪えないものばかりだった。では、どうすればよいのか?
 ハリウッドには簡単かつ完璧な解決策がすでに用意されていた。以前にも、こうした問題を解決した経験があったのである。そのノウハウはほとんど万能ともいえるもので、サーフ・ミュージックにもいっさい修正なしに応用できるものだった。

インストゥルメンタル・ロック黄金時代

 すくなくとも初期においては、サーフ・ミュージックはインストゥルメンタル音楽だった。インストゥルメンタル・ロックのはじまりをどのあたりに設定するかはちょっと微妙なところがあるが、ここでは一般論にしたがっておく。まず、以下のタイムラインをご覧いただきたい。

インストゥルメンタル・ロック・タイムライン1957-1962
DateArtistTitle
1957/11Bill Justis & His OrchestraRaunchy
1958/02ChampsTequila
1958/04Link Wray & His Ray MenRumble
1958/06Duane EddyRebel-Rouser
1958/08Cozy ColeTopsy II
1959/01Link Wray & His Ray MenRaw Hide
1959/03Dave "Baby" CortezHappy Organ
1959/05Preston EppsBongo Rock
1959/07Johnny & the HurricanesRed River Rock
1959/07Santo & JohnnySleepwalk
1959/08Sandy NelsonTeen Beat
1959/09Ernie FieldsIn the Mood
1959/09FireballsTorquay
1960/05Duane EddyBecause They're Young
1960/07VenturesWalk Don't Run
1960/12Ramrods(Ghost) Riders in the Sky
1961/03B. Bumble & the StingersBumble Boogie
1961/04Al CaioraBonanza
1961/05Arthur LymanYellow Bird
1961/07Mar-KeysLast Night
1962/01Mar-KetsSurfer's Stomp
1962/02King CurtisSoul Twist
1962/03B. Bumble & the StingersNut Rocker
1962/07Dave "Baby" CortezRinky Dink
1962/08Booker T. & the MG'sGreen Onion
1962/10Herb Alpert & The Tijuana BrassThe Lonely Bull
1962/12RoutersLet's Go (Pony)

 以上の一覧は、この期間のすべてのインストゥルメンタル・ヒットを列挙したわけではなく、R&B色の強いもの、オーケストラによる甘いものなどをはずし、恣意的にピックアップしただけなのだが、それでも、60年代後半だったら考えられないほど多数がヒットしたことがはっきりとあらわれている。
 ほとんどがプロによるもので、いかにもアマチュアじみたプレイは、リンク・レイやファイアボールズなど、一握りしかない(ストリング・ア・ロングスもアマチュアだが、そつのないプレイをしている。ただし、「ハリウッド式トリック」を使った可能性を百パーセント否定できるわけではない)。じっさい、削りだしたばかりの太い丸太のようなリンク・レイのギター・プレイは、カリフォルニアのサーフ・グループに強い影響をあたえたと思う。

野生を飼い慣らす、またはハリウッド流錬金術

 サンディー・ネルソンも下手なドラマーだが、じつは、彼は上記の曲ではプレイしていない。ネルソン名義の盤でじっさいにドラムを叩いたのは、ほかならぬアール・パーマーだった(ついでにいうと、上記リストのなかでアールが叩いた曲は、確実なものだけでも5曲ある。ここでも彼は主役だった)。ネルソンの盤を聴いていて、うまいドラムと下手なドラムが混在していることに疑問をもち、キャロル・ケイに問い合わせたところ、ローカル47(アメリカ音楽家組合LA支部)の依頼で、表向きではない、真のパーソネルの調査をおこなっているラス・ウェイパンスキーの資料では、アールがネルソンの多くの曲でプレイしたことが判明しているとの回答があった。それでこそ、ネルソンがニューオーリンズの曲をカヴァーして、じつにみごとにニューオーリンズ・フィールを出していることの説明がつくというものだ。アールやプラズやルネなどのほんもののニューオーリンズのプレイヤーの仕事だったのである。
 ヴェンチャーズは、日本ではうまいバンドということになっているが、じっさいにはいかにもアマチュアじみた腕しかなかった。後年、日本でブームを巻き起こしたころには、そこそこのプレイができるようになっていたが(それにしたところで、当時のライヴ・バンドのレベルが低すぎて、相対的にまともに聞こえたにすぎない)、デビュー当時のライヴを聴くかぎり、カリフォルニアのサーフ・グループと大差はない。
 さまざまな証拠、証言、そしてわたし自身の聞き取りから、彼らの最初のヒットである“Walk Don't Run”からすでにプロのプレイヤーが、すくなくとも彼らを補助するかたちでプレイしたと、きわめて強い確信をもって推測している。この曲のリード・ギターは、一般に信じられているようにボブ・ボーグルが弾いたのではなく、ハリウッドのエース、ビリー・ストレンジによるゴーストだろう。
 サーフ・ブームで一儲けしたいレーベルは、タレントの獲得に乗り出すいっぽうで(たとえばキャピトルは1963年にディック・デイルと契約する)、どうせ下手くそなバンドばかりだから、そういうものに依存しない方法、サンディー・ネルソンやヴェンチャーズによって証明済みの手法をとるようになった。スタジオ・ミュージシャンを集めてサーフっぽい曲を録音し、架空のサーフ・グループの名前でそれをリリースして、しかるのちに、ちょっと楽器をいじる若者を安い金で雇ってジャケット撮影やテレビ出演、ライヴ・ツアーなどのプロモーション活動をさせる、というスタイルが生まれたのである。
 これを最初にやったのは、キャンディクスという独立レーベルの若きA&Rマン、ジョー・サラシーノだったと考えられる。サラシーノは、1961年終わりのある日、バルボアのクラブにいき(デイルがプレイしていたランデヴー・ボールルームか?)、そこで奇妙なダンスに興じる若者たちを目撃した。話を聞いてみると、それは「サーファーズ・ストンプ」というステップだということだった。
 ハリウッド随一とも思われる、儲け話を嗅ぎ分ける彼のするどい嗅覚と臆面のなさが発揮されたのは、この瞬間だった。彼はすぐにバルボアで見たステップを念頭に“Surfer's Stomp”という曲を書き、スタジオ・ミュージシャンを集めて録音した(サックス=プラズ・ジョンソン、ギター=トミー・テデスコほか、ドラムス=シャーキー・ホール)。そして、マーケッツというグループ名をでっち上げて、それをリリースし(なぜか、キャンディクスではなく、リバティーからだった)、適当な若者たちを雇ってツアーに送り出した。
 サーフ・ブームの初期には、ほとんどナショナル・ヒットが出ていないが、この曲は初期の例外のひとつだった。アマチュアの「本物」は捨て、プロの「偽物」を使うという、サラシーノのアイディアの勝利だった。ディック・デイルをはじめとするサーフ・グループが行き当たりばったりのプレイをしたのに対して、“Surfer's Stomp”はより一般性のある、きちんと設計されたサウンドをもっていた。それは冒頭のキック・ドラムのストレート・フォース、そこにかぶさってくるスタンダップ・ベースを聴いただけで明らかだ。そして、プラズ・ジョンソンが、彼の数ある名演のなかでも、とくに印象深い音色によるすばらしいダブル・トラックのテナー・プレイを聴かせてくれる。
 このトラックはたんなるささやかなヒット曲ではなく、じつは未来のハリウッドへのロード・マップだった。

「アングル」を求めて

 ハリウッド音楽界に魅力を感じたミュージシャンは、当然ながらアール・パーマーひとりではなかった。とりわけ50年代終わりから、この絶好の「猟場」の入場券を手に入れようと、アメリカ全土から若いミュージシャンたちが集まってくるようになり、映画スターを目指してカーホップで働くブロンド・グラマーたちのように、スタジオに入り込む道を探っていた。こうした若いミュージシャンは、まずデモの仕事で足場をつかみ、ネットワークを築いていくうちに、大きなセッションに呼ばれ、そこで実力を発揮して、レギュラーの座へとのぼっていく。
 トミー・テデスコは1930年7月3日、ニューヨーク州ナイアガラ・フォールズで生まれた。彼もまたアール・パーマーやキャロル・ケイと同じビーバッパーだった。旅まわりのビッグ・バンドでギターを弾いて経験を積んだのち、1953年のある日、彼は妻に言い渡した。「ここを出てカリフォルニアいく。たいていのミュージシャンは、ちょっと年をとってからあそこにいくものだ。オレはまだ23歳だ。早めにスタートしようじゃないか」

Tommy Tedesco 1953
はじめてのハリウッド 1953年、ラルフ・マーテリー楽団のメンバーとしてパラディアムのステージに立ったトミー・テデスコ。すでに太りはじめていたが、まだセクシーではなかった? 発売まもないギブソン・レス・ポールを弾いていることに注目。

 ラテン的陽気さの体現者であるこのギタリストの人生は、とほうもない笑劇に満ちている。ハリウッドにやってきたからといって、若いギタリストがすぐにプロの世界に食い込めるはずがない。テデスコはギター教師の口を探したが、手に入ったのはアコーディオン教師の仕事だった。問題は、彼はアコーディオンなど弾いたことがなかったことだ! アコーディオン教師の友人に、どのボタンがなにをするものかを教えてもらっただけで、テデスコは初心者の生徒たちに立ち向かった。
 たいていの生徒は素直にテデスコを信じてくれたが、二人だけやっかいな生徒がいた。ひとりは東洋系の少女で、さっと弾いてみせたあげく、もっと上級のレッスンを受けたいといった。彼はこの少女を友人の本職教師に譲った。もうひとりは男の子で、彼は自分で弾いては、「先生」が模範プレイをしてくれるのを待った。テデスコは無視した。ある日、この子の母親が「お手本を弾いてくれませんか?」といった。テデスコは断った。この子は指示を受けることを学ばねばならない、わたしはあくまでも教師、この子はあくまでも生徒なのだから、と説明した。なによりもギャンブルを愛するこのギター弾きは、ハリウッドでの最初の日々を度胸とブラフで乗り切った。
 いい加減を絵に描いたような人間だったが、ギターに関しては大まじめだった。「一日に8時間はギターを弾いた。これくらいやれば、たいていのことはモノになるものさ」といっている。やがて人脈も広がり、クラブでのギグから、スタジオへの足がかりをつかんでいく。映画サントラの録音でスタジオにいってみたら、大編成のオーケストラで、ギターの出番は97小節目、いまどこをやっているのかわからないまま、いつのまにか97小節目は通りすぎていて、コンダクターに怒鳴りつけられるという失敗もあったが、彼は一歩一歩、レギュラーへの道をつかんでいった。

カウボーイ・ブーツを履いたギタリストたち

 ビリー・ストレンジはテデスコと同じ1930年、カリフォルニア州ロング・ビーチで生まれた。みずからを語ることを好まない彼のキャリアには不明な点が多いのだが、幼児のうちから両親が出演するローカルのラジオ番組に出て、歌をうたうようになった。最初にプレイした楽器はトランペットだったが、14歳のときにギブソンL-7をプレゼントされてからは、ギターが彼の生涯の楽器になった。
 両親のカウボーイ・ショウや、他のグループでプレイをつづけ、50年代に入ってからはテレビの世界で活躍するようになる。彼がレギュラー出演した番組としては、「クリフィー・ストーンのホーム・タウン・ジャンボリー」「アーニー・フォード・ショウ」がある。クリフ・ストーンもテネシー・アーニー・フォードもカントリー・スターだが、ビリー・ストレンジのルーツもカントリー・ミュージックだった。また、この時期にディズニー・プロとかかわり、テレビの「ディズニーランド」のいくつかのエピソードや劇場映画などで主題歌を歌ってもいるし、俳優として「ルーシー・ショウ」や「ローハイド」などに出演もした。
 彼がスタジオのレギュラーになったのはいつごろなのかはっきりしないが(ラジオ、テレビ、映画にかかわっていたので、自然に盤の制作にもかかわっていくことになったと推測される)、50年代後半には、テネシー・アーニー・フォード、ワンダ・ジャクソン、スペイド・クーリー、スピーディー・ウェストなどのカントリー/ロカビリー系のシンガー、そして、アネットのようなディズニー/ブエナ・ヴィスタのアーティストのレコーディングに参加するようになる。60年代の幕が切って落とされたとき、彼はすでに、映画、音楽の両方のスタジオのひとびとから信頼されるギタリスト、シンガーになっていた。


Billy Strange with his 12string-guitar
ビリー・ストレンジ

 グレン・キャンベルは、1936年4月22日にアーカンソー州の田舎町ビルズタウンで生まれた。貧しいキャンベル家のささやかな楽しみは音楽で、グレンも子どものときにギターをあたえられ、また聖歌隊で歌うようにもなった。十代なかばで伯父のグループに加わってツアーをするようになり、16歳のときには高校を退学して、フルタイムのパフォーマーになった。
 1960年、グレンはチャンスを求めてLAにやってきた。エディー・コクランはイギリス・ツアーから帰国したら、グレン・キャンベルをプロデュースすることになっていたという伝説があるが、グレン自身は否定している。じっさい、コクランの死んだ時期とグレンがLAに出てきた時期を考え合わせれば、二人のキャリアが交叉する可能性はない(しかし、コクランが、グレンにタイプの似ているアル・ケイシーをプロデュースしたことを考え合わせると、歴史の隙間を衝いたよくできた作り話ではある)。
 グレンはほんのしばらくのあいだ、チャンプスに加わってプレイしたのち、セッション・ワークをはじめる。また、62年にはアーティストとしてキャピトル・レコードと契約するが、ヒットは出ず、68年に一躍大スターになるまでは、もっぱらスタジオ・ギタリストとして生きることになるだろう。

Glen Campbell
グレン・キャンベル

 ビリー・ストレンジ、トミー・テデスコ、グレン・キャンベルの3人、さらにはジェイムズ・バートンまでふくめて、全員がヴェンチャーズのレコーディングに参加しているが、サウンドやギミックに頼らず、ギター・プレイの質のよさだけで勝負した60年から62年にかけては、主としてストレンジがリード・ギターを弾き、初期ヴェンチャーズのすばらしいカタログを残した(ドラムに関しても、メル・テイラー参加以前のこの時期のほうが安定している)。
 サーフ・ミュージックの創始者がディック・デイルだということに異論があるわけではないが、60年代初期のサーフ・グループにとって、初期ヴェンチャーズの盤もきわめて大きなインスピレーションの源泉となったのはまちがいない。リヴァーブと並ぶサーフ・ミュージックのギター・サウンドの特徴はトレモロアームの多用だが、それはビリー・ストレンジのみごとなアーミングに端を発するものだろう。
 この4人のうち、テデスコだけがジャズ出身で、あとの3人はカントリー・ルーツをもっている。テデスコとストレンジは譜面の読み書きができたが、キャンベルとバートンはできなかった。スタジオ・プレイヤーにとっては、譜面が読めることは基礎能力だが、このような譜面を読めないプレイヤーが出てきたことは、時代の変化をあらわすものだった。
 この4人と、50年代後半のエースだったバーニー・ケッセルやハワード・ロバーツなどのジャズ・ギタリストを比較すると、明らかにプレイがちがうし、トーンも異なる。なによりも、ケッセルやロバーツのおもな仕事は「伴奏」であり、ポップ系のセッション・ワークでソロをとる機会は多くなかったのに対して、60年代のエースたちはしばしばソロをとり、さらにはさまざまなギター・インストゥルメンタル・グループの盤でリードを弾いた。
 4人のそれぞれに強い個性があり、ひとまとめにするのは適切ではないのだが、かつてのような「伴奏」として一歩引いたかたちではなく、シンガーと同等の立場からプレイするスタイルをもっているという共通点がある。それは彼らが望んだことではなく、時代が望んだものだった。サウンドが前に出てくる時代とともに、彼らは急速にスタジオを支配するようになったのである。
 もちろん、それはギターだけのことではなかった。

ここに坐ってあなたのプレイを見ていいですか?

 ハル・ブレインことハロルド・サイモン・ベルスキーは、大恐慌の年である1929年の2月5日、貧しいポーランド系ユダヤ移民の息子として、マサチューセッツ州ホリオークに生まれた。子どものころからビッグバンドに親しみ、ドラムを叩くようになった。第2次大戦中の1944年、一家はカリフォルニアに移住し、すぐにハルはサン・バーナーディーノの長姉の家に引き取られた。朝鮮戦争に志願兵として出兵したのち、帰還してからはGIビルによる奨学金を使い、シカゴのロイ・ナップ・パーカッション・スクールでドラムとピアノを学んだ。
 学校を卒業してからは、他の多くのミュージシャンと同じく、さまざまなバンドに加わってアメリカ中を旅する日々がつづいた。1957(58?)年、トミー・サンズにツアー・バンドのドラマー兼ロード・マネージャーとして雇われた。これはハルにとってははじめてのロックンロール・バンドであり、同時に、スターとのはじめての仕事でもあった。

Hal Blaine
ハル・ブレイン

 ハルはキャピトルでのサンズのレコーディングにも参加した。彼にとってはごく初期のスタジオ・ワークだが、後年のドラミングとはやや異なるものの、彼の持ち味である明るさ、派手さはすでに感じられるプレイをしているし、それまではサンズのセッションのレギュラーだったアール・パーマーに見劣りしないプレイの質をもっている。
 アールは、ハルについてつぎのように語っている

 はじめて会ったとき[1957、8年]、彼はダイアモンズのツアー・バンドで叩いていた。でも、スタジオ[でのダイアモンズのセッション]ではオレが叩いていた。あるセッションのとき、彼がやってきて、「ここに坐って[あなたのプレイを見て]いいでしょうか?」といった。彼は礼儀正しく、そして、注意深かった。オレがプレイしているあいだ、ハルは肩越しに譜面を読んでいた。礼をいわれたので「なあに、いつでも歓迎さ」とこたえた。オレはどこかで彼のプレイを聴いたことがあり、推薦できるだけの腕をもっているのを知っていた。オレはキリストじゃないけれど、だれかが自分の仕事をとるなんて心配はしていなかったのさ。
 ハルとオレはたんなる商売がたきにすぎない。「敵」なんかじゃないんだ。だから、オレの人生にとって、彼は際だった存在なんだ。彼にとっても、オレがそういう存在なのはまちがいない。改めてそんなことをいったことはないが、お互いにとって際だった存在だった。いろいろな連中が、「なあに、あんたにくらべたら、ハルなんかものの数じゃないよ」といったことをいう。だが、「オレがすぐれたドラマーを聞き分ける耳をもっていないとでもいう気か?」といいたいね。彼はジャズ・ドラミングに関してはさしたる才能はもっていなかったが、だからといって、自分の分野でとてつもない才能をもっていなかったということにはならない。

 60年代はじめのアールは、押しも押されぬセッション・ドラマーのキングで、彼のもとには依頼が殺到していた。アールは、自分がいけないときは、コントラクターに「ハルを使ってみたらどうだ」と推薦し、そのおかげもあって、ハルはスタジオ・ドラマーとしての地歩を築いていくことができたのだった。
 トミー・テデスコ、グレン・キャンベル、ビリー・ストレンジ、そしてハル・ブレインといった、新しい世代のスタジオ・ミュージシャンは、短いサーフ・ミュージック・ブームの時代、レコード会社や映画会社の商策から生まれた「洗練されたサーフ・ミュージック」に、匿名のプレイヤーとして参加することによって、スタジオでのプレゼンスを強めていった。ハリウッドのヴェテラン・プレイヤーたちは馬鹿馬鹿しい音楽には慣れっこだったが、サーフ・ミュージックはさすがにあまりにも愚劣だと忌避したおかげで、彼らのような、相対的に若いミュージシャンに出番がまわってきたのだった。

アメリカ中どこにでも海があったら

 コクラン家やベルスキー家は、1930年代終わりから大戦後にかけて、このブーム・タウンに仕事を求めてやってきた無数の家族のほんの一例にすぎなかった。こうした新しい労働人口を受け容れるために、LAは郊外へと向かって、急速に野放図なスプロウルをつづけていた。
 そのような、LA郊外の衛星都市として発展していった町のひとつホーソーンで育ったブライアン、デニス、カールのウィルソン兄弟と、いとこのマイク・ラヴ、その友人のアル・ジャーディーンは、ペンドルトンズというコーラス・グループを組んだ。彼らは61年12月、キャンディクスのシングル“Surfin'”でデビューした。このときにグループ名をビーチボーイズと変えられた。この曲はビルボード75位どまりだったが、ヴォーカルによるサーフ・ミュージックとしては最初のナショナル・ヒットとなった。ビーチボーイズの登場によって、サーファーたちははじめて、そのライフスタイルの雄弁なるプロモーションマンをもったのである。
 62年に彼らはキャピトルと契約し、同年8月には“Surfin' Safari”が15位の大ヒットとなった(10月には、サーフィンと表裏一体をなすホットロッドを扱った“409”で小ヒットを得ていることも注目に値する)。

The Beach Boys 1962
デビュー当時のビーチボーイズ 左からマイク・ラヴ、ブライアン、カール、デニスのウィルソン兄弟、そして、アル・ジャーディーンと交代したデイヴィッド・マークス

 アーティストは通常、会社からA&Rが割り当てられる。A&Rは楽曲を選び、セッションの指揮を執ることになっている。ビーチボーイズにも、ニック・ヴェネーという、彼らとあまり年齢の変わらない若いプロデューサーが割り当てられた。しかし、ブライアンは、マネージャーだった父親のマレイ・ウィルソンの強引な交渉のおかげで、みずから楽曲を選び、セッションを指揮する権利を獲得した。その背景には、ブライアンの並はずれたソングライティングの能力があった。そして、しだいに彼はプロデューサーとしての能力も発揮していくことになる。
 プロデューサーとしてブライアンが最初に生みだした大ヒットは、1963年1月に録音された“Surfin' USA”だった(名義はまだヴェネーになっているが、実質的プロデューサーはブライアンだった)。このときのセッション・シートは失われてしまったらしく、録音メンバーについては複数の説があるが、ドラマーがハル・ブレインだったことはまちがいない。また、推定だが、ベースはレイ・ポールマン、リード・ギターはビリー・ストレンジ、リズム・ギターはキャロル・ケイだろう。カール・ウィルソンがリードを弾いたという説もあるが、シンプルではあるものの、端正で正確なこの曲のリードのピッキングと運指はカールのものとは思えない。
 1963年はブライアンにとって、大飛躍の年だった。はじめてトップ10ヒットを飛ばしてまもなく、こんどはソングライターとしてジャン&ディーンに提供した“Surf City”が、彼にとってはじめてのチャート・トッパーとなった。4月には“Shut Down”(23位)がヒット、8月には“Surfer Girt”(7位)と“Little Deuce Coupe”(15位)が両面ヒットし、11月には“Be True To Your School”(6位)と“In My Room”(23位)がまたしても両面ヒットした。

ジャン&ディーン、リンダをサーフィンに連れていく

 ジャン&ディーンは、デビューのときからビーチボーイズに注目していた。ともに土地っ子で年齢が近いだけでなく、ジャンとディーンはサーファーでもあったので、ヴォーカルによるサーフ・ソングというアイディアにも感銘を受け、すぐにアルバムで“Surfin'”をカヴァーし、のちにライヴで同じステージに上がってビーチボーイズの面々と知り合ったときにはたちまち意気投合して、二人は彼らを自分たちのレコーディングに招いた。
 ブライアン・ウィルソンのほうも、彼らよりはるかにキャリアが長く、しかも同じノリをもつジャン&ディーンにある種の敬意をもっていた。ジャンとブライアンはすぐにいっしょに曲を書いた。それがサーファーの国の国歌ともいうべき“Surf City”(63年4月録音)で、これはブライアンにとっても、ジャンにとっても、最初のチャート・トッパーとなった。
 カリフォルニア以外のこの世界が、サーフィンとサーフ・ミュージックという新しい流行をほんとうの意味で知ったのは、“Surfin' USA”と“Surf City”という2曲のスマッシュによってだったといってよいだろう。太陽と海とビキニ・ガールと車、というカリフォルニアの神話をつくったのは、ブライアン・ウィルソンとジャン・ベリーだったのである。
 ジャンは“Surf City”によって、はじめてサウンド・クリエイターとして本領を発揮した。最初の1小節から、リヴァーブを効果的に使ったスケール感でいきなりリスナーの耳をひっつかむあたりはみごとで、それまでのチープなサーフ・グループとははじめから格がちがうことを見せつけている。エンジニアのボーンズ・ハウの力もあるにせよ、これでよしと承認したのはプロデューサーであるジャンなのだから、やはり彼の功績も大きい。

Jan Berry and Bones Howe
ジャン・ベリー(右)とボーンズ・ハウ ジャンはつねにユナイティッド・ウェスタンを使った。ボーンズがいじっているのが、ビル・パトナムがデザインしたコンソール。

 この曲では、ドラム・ストゥールにはハル・ブレインとアール・パーマーの両方が坐った。これもジャンのアイディアで、二人のドラマーにユニゾンで叩かせることによって、サウンドに厚みをもたせようとしたのである。ヴォーカル、ギター、サックス、いや、音階のある楽器ならなんでも、とりわけピッチが固定されていないものは、ダブルにすると面白いサウンドになるが、ドラムに関しては、タイムにズレが生じるので、個人的にはダブルは好まない。しかし、ポップ・シングルではサウンドの手触りがなによりも重要なので、ジャンのサウンドに対するこだわり自体は買える。以後数年のあいだ彼は、シングル曲に関しては、ハルとアールをダブルで使うことを習慣にしたため(アルバム曲ではハル単独ということもある)、ジャン&ディーンのトラッキング・セッションは、世界でいちばん多忙な二人のドラマーが顔をそろえられる唯一の時間帯、深夜から早朝にかけておこなわざるをえなくなる。
 この曲をフィーチャーした同題のアルバムでは、音楽の中身以外にも歴史的に重要なことが起きた。この時期にハリウッドのセッション・レギュラーとして名声を確立しつつあったミュージシャンたちの名前が、そろってアルバム・ジャケットに明記されたのである。60年代には参加プレイヤーの名前をジャケットに書く習慣はなかったから、これは希有なことで、おそらくは2番目の例だと思われる(最初の例については次章でふれる)。以下にそのメンバーを書き写しておく。

ドラムスアール・パーマー、ハル・ブレイン
ギターグレン・キャンベル、ビル・ピットマン、ビリー・ストレンジ、トミー・テデスコ
ベースレイ・ポールマン、ジミー・ボンド(前者はフェンダー、後者はスタンダップで、べつべつではなく、ダブルでプレイしたと思われる)
ピアノリオン・ラッセル
ホーンジェイ・ミグリオーリ、スティーヴ・ダグラス、ロイ・ケイトン、トム・スコット
ストリング・セクション・リーダーシド・シャープ

 アールをのぞけば、いずれも超ヴェテランではなく、数年前から活躍しはじめ、60年代を通じて第一線で活躍するプレイヤーばかりである。
 “Surfin' USA”と“Surf City”のサウンドを比較すると、やはり、ジャンのほうに一日の長がある。前者はシンプルな構造で、音の奥行きもないが、後者はダブル・ドラムに象徴されるように、より複雑で洗練されたアレンジになっているし、リヴァーブによってうまくスケール感を出している。また、両者のアルバム・トラックを比較すると、ジャンはドラムの音を前に出したり、強力無比のギタリスト陣にスポットをあたえて、思いきり暴れさせたりと、いかにも60年代的なプロデュースをしていることが目につく。
 それにくらべ、ブライアンはヴォーカル・ハーモニーのほうに神経を使っていて、サウンドは弱く、厚みと力強さに欠ける。この点から考えて、ジャン&ディーンのセッションに参加することによって、ブライアンがさまざまなことを学んだのは容易に想像がつく。プレイヤーに思いのままに暴れさせるのは彼の好みではなかったが、やがてブライアンはジャンを埃のなかに置き去りにして、明日の彼方のサウンドをつくりだすだろう。
 後年、ビーチボーイズの亜流とみなされるジャン&ディーンだが、この時点では、ジャン・ベリーのほうがブライアン・ウィルソンを導いていたのはまちがいない。ジャンのように若いアーティストが、この時期になって急速に充実しはじめたハリウッドのリソースを使いこなしながら、みずからの盤を自分の思い通りにつくる姿は、ブライアン・ウィルソンには大きな刺激になったはずだ。

「譲位」のきざし

 そして、63年がすばらしい年になったのは、ハル・ブレインにとっても同じことだった。1962年までは、ハリウッドのセッション・ドラマーのキングは、まちがいなくアール・パーマーだった。1962年のハルは、サム・クック(Another Saturday Night)、エルヴィス(Return to Sender)、クリスタルズ(He's a Rebel)、ルーターズ(Let's Go (Pony))などの大ヒット曲でプレイして、その独特のスタイルの萌芽を見せ、存在をアピールするようになったが、まだアールの地位を脅かすにはほど遠かった。二人が同じセッションで顔を合わせれば、ボビー・ヴィーの“The Night Has a Thousand Eyes”やティファナ・ブラスの“The Lonely Bull”のように、ドラム・ストゥールにはアールが坐り、ハルはパーカッションにまわるのがつねだったのである。
 63年がはじまるやいなや、カスケイズの“Rhythm of the Rain”で、ハルはこの年最初のナンバー1ヒットを手にする。59年から62年までの4年間で、合計わずか7曲しかなかった彼のトップ・テン・ヒットは、63年だけで15曲にもなった。「アール・パーマー王朝」にはじめてかげりが見え、次代を担う新しい才能が一気に開花したのがこの年だったのである。

 ティーネイジャーのエネルギーを轟音のかたちで発露したものとしてはじまったサーフ・ミュージックは、レコード会社と映画会社の商策によってコースをねじ曲げられ、ブライアン・ウィルソンという天才と、ジャン・ベリーという才人によって、「ある種の」洗練を獲得し、カリフォルニアからアメリカ全土へ、さらには海外にまで、南カリフォルニアが生んだ世界ではじめての「ユース・カルチャー」とライフスタイルを伝播していくことになる。そして、その裏側にはつねに、サーフ・ブームとともにスタジオを闊歩するようになった、ハル・ブレインやグレン・キャンベルのような新世代のスタジオ・ミュージシャンたちがいた。
 ハル・ブレインをはじめ、新世代のスタジオ・プレイヤーたちのキャリアを一気にブーストしてくれた人物としては、もちろん、ブライアン・ウィルソンとジャン・ベリーをあげなければいけないだろうが、それ以前にもっと重要な人物がいた。つぎは、その人物、「十代の大君」と呼ばれたプロデューサーの物語を見ることにしよう。



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